筒状の時の穴


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サンパウロへのサウダージ』は、サンパウロでもない、東京でもない、日本の一地方都市の郊外に近い川沿いの古い街区を毎朝散歩する私の体験にもいわれなきサウダージの感覚を喚び起こしていた。昨日のエントリーの引用では敢えて省いた箇所には、私にとっては生々しすぎる都市の記憶を旅することの神髄、時の狭間にこの身体を開き置く愉楽が抑制のきいたトーンで語られている。

普通なら地下鉄かタクシーを利用してしまうにちがいない距離をも、私は写真集(ブラジル版『サンパウロへのサウダージ』)を小脇に抱えて歩きながら時間をかけて移動した。65年前の写真を手掛かりにして、民族学者が残した時の微細な痕跡が道端からゆっくりと立ち現われるのを目撃することだけが、私の関心のほとんどすべてだったからである。ちょうどレヴィ = ストロースの遊歩の軌跡をたどるように下町の迷路のような細い路地に紛れ込めば、そこにはいまだ石畳の古い路面がところどころ露出した小径が伸びていた。その摩滅した石の表皮と新しいアスファルトの表皮(それもすでに何度も塗り替えられて膿のような気泡に覆われている)のモザイク模様を足の裏でたしかめながら歩くうちに、私の身体の周囲に筒状の時の穴のようなものが口をあける。時間という次元を欠いた都市の「自らの残骸の堆積」が、時空を超えて「いま」に現われ出る気配を感じた私は、思わずその仄暗い筒状の穴に自分の手を差し込んで、闇のなかに沈殿する記憶と忘却の混合体に触れようと身構える。レヴィ = ストロースの写真が撮影されたにちがいないスポットを探し当て、かつての写真と今の景観とをファインダー越しに見比べながら微妙に身体の位置を修正し、その時間錯誤的な同一性の構図のなかに自分の身体が収まったと感じるや否や、私はシャッターを押すことも忘れて「その地点」にとどまり、ファインダーから目をそらして中空を見つめ、手の指を古壁や石畳の亀裂に沿って遊ばせていることも多かった。

(今福龍太「時の地峡をわたって」、『サンパウロサウダージ』134頁〜135頁)