YouTubeに恋して:私のYouTube「サイト」Fragments of Life

YouTubeにぽつりぽつりと動画をアップし始めて、二年ちかくになります。場所はジョナス・メカスに因んでFragments of Lifeと命名したYouTubeの私のチャンネルです。今日現在で全部で106個の動画があります。数としてはとても少ない方です。でも、ひとつひとつが私にとっては貴重な人生の記録です。まあ、ログです。ただし、いわゆるライフログという名称には違和感があって、じゃあ何て呼ぶの、と訊かれたら(訊く人は美崎薫さんくらいしかいませんが)トラヴェローグ、人生という旅の記録さ、とカッコつけて答えるようにしています。それでも怪訝な顔をされたときには、こう答えるようにしています。人生はどんな瞬間もあくまで旅、トラベルでしょ。

ところで、あんまり気にする人はいないようですが、私がもの凄く違和感を感じていることがあります。それはYouTubeでは、サイトではなく、「チャンネル」という古いテレビのメタファー(比喩)が使われていることです。もちろん、使い勝手のよいインターフェースのプラットフォームでなければならないというビジネスの宿命だからなのでしょうが、私としてはあくまでウェブだろう、ウェブ、と言いたくなるわけです。そこを誤摩化されたくない、いや、YouTubeGoogle)さんが私を誤摩化そうとしていると言いたいわけではありません。そうではなく、私はあくまでウェブとしてのYouTubeに恋しているのです。だから裸にしてその真の姿をちゃんと見つめたい。そう思いませんか。ですから、私は内心いつも、あくまで私のYouTube「サイト」Fragments of Lifeと呼んでいます。

恋するということは綺麗ごとでは済まないのです。

それに、もし新しいビジネスに挑むなら、なおさら、従来のビジネスがどんな比喩に基づいているかを見抜き、少なくともそれとは違う比喩の上に家を作らなければならないわけだよね。私は直接はビジネスには関心ないんだけど、それでも、一方的に過剰なインターフェースのプラットフォームを押し付けられるのは嫌なので、美崎薫さんのように自分では作れないから、せめて自分の心の中に自分流儀のプラットフォームをしっかり作らなきゃいけないなんて思っています。まずは「それ」がウェブであることが見えるように裸にするというか透視する。さらにウェブそのものを裸にする、透視する眼を養うことが大事なんじゃないかと感じているんです。

恋するということは綺麗ごとでは済まないのです。

話は戻って、私のYouTubeサイトFragments of Lifeには、主に朝の散歩中に撮ったビデオをアップしています。大半が一分以内の超ショートビデオです。タイトルやタグは英語でつけるようにしています。別にかっこつけてるわけじゃありません。意図があります。

現在では日本語でも変わらないのかもしれませんが、英語圏の人たちがタイトルやタグの検索によって見に来るわけです。来てくれさえすれば、あとは言語の壁のない映像の世界なので、中には感じたままを知らせてくれる人もいます。やはりアメリカが多く、年齢層は中学生から私よりはかなり年上に見える(写真では)人まで。

ところで、ほぼ日本語オンリーの「三上のブログ」ではどうかというと、動植物や著名人等の名前だけは必ず英名などを併記するようにしているので、そこが検索に引っかかって、海外から見に来てくれる人は少なくありませんが、肝腎な記事については、グーグルの翻訳にかけて見ているらしい人が少しいるかなあ、という程度でちょっと淋しく感じることがあります。インターネットなのに、言語の壁によって、超ローカルになっている!「三上のブログ」は厳然たる言語の壁に囲まれている。

そのせいか、時々、私のYouTubeサイトFragments of Lifeの動画にコメントが来たりすると、あるいはお宅のチャンネル登録したよ、というメールが来ると、その言語の壁に風穴が空いて、インターネット上を吹いている爽やかな風が吹き込んで来たような錯覚を覚えます。それが実は英語圏というもうひとつの言語の壁であることはさておき。

話があちこち飛んでいますが、、要するに何が言いたいかというと、私の場合、ウェブにおける拠点は今のところ「三上のブログ」と「Fragments of Life」とここでは触れませんでしたがFlickrの「365Photos of Mt. Moiwa」の三つだということです。だから、何なのさ? 何なのさって、少しは感じ取ってよ。