いざ北へ2008その38 真実の語り方は難しい

これこそ真実だとその瞬間に確信したと思っちゃったことを、そのまんまに語ると誰も耳を傾けてくれないという世の真実に気づいたのはいつの頃だろう。

でも、逆に、平民さんが佐野元春を語りながら語る生き方も素敵だなあと思ったりする。要するに、誰も耳を傾けてくれないかもしれないけど、自分の信じたことを幾つになっても貫き通す、何て言うか、心意気というか根性というか。

知らず知らずのうちにこわばってしまっていた心にフーっと優しい息を吹きかけて、スーっと余計な力を抜いてくれるような悪魔的な文章と写真だと感じた。「あ、写真と文章は何の関係もありません。また明日。」という何気ない結び方も心憎い。なんで、無理矢理関係づけなきゃいけないの。そんなことするのは写真に対する鈍感な暴力。あなたは写真の生命のことが分かっていない。あなたは写真を殺している。そう耳元で囁かれた気がした。

タイトルだって、タグだって要らない。写真はそこにあればいい。写真は人生の記録なんかじゃない。そう呼ばれる写真は本物の写真じゃない。本物の写真は人生なんか超えた世界の瞬間の真実の姿。ましてや、写真に言葉を潜ませるなんて、大きな罪。それはもう写真とは言えない。単なる記録、記号、符牒。写真や文章に出会うのは偶然、そして写真と文章は無関係。そんな風通しのよいヴィジョンに触れて久しぶりに心が軽くなった。こう見えても、爺の心は重いのよ。

偶然をコントロールしようとしすぎて、人は道を誤ることがある気がする。つながりを求めすぎて人は道を誤ることがある気がする。偶然を偶然のままに無関係のなかで救い上げる技術。それが写真家の技術なのかもしれない、そしてそれが本当の出会いなのかもしれないなって感じた。自分でも何言ってんだか、よく分からなくなってきた。

そうそう、真実だって思ったことをどう語るか、行動に移すかって話、だった。頭だけで語ってると、本人が落ち込んでいる穴に気づかない。

今、シュッポ界隈で起こっていることは、言葉と行動が連動して、現実が数ミリかもしれないけど動いているということだと感じています。それでお金が儲かるとか、仕事にありつけるとか、そういうことではなくて、自分が今生きている現実というものが、それが実は「自分」でもあるんだけど、タマネギの皮が剥けるようにどんどん剥けて、今まで気づかなかった皮というか層が新鮮に姿を現すという感じだと思う。それって、凄いことだよね。頭だけの人には永遠に分からないことなのかもしれませんが、それもまたよし。その人の人生だもんね。