じゃこしか爺さんが、「飛躍」を断った上で、劣悪な環境にもめげずに光を求めて逞しく生長する植物の健気な姿と、身勝手で不甲斐ない人間のひ弱さを重ねながら、大きな何かを静かに訴えていた。
その何かは人間にとっての「ひかり」だと思った。今の世の中で決定的に欠けているもののこと。
それは何だろうかと考えていた矢先に、タクオの「希望の話」を読んで、ぴん、ぴん、と来た。
- 「希望という名のアーキテクチャー」(『takuo.. .』2008/8/27 水曜日)
プロになれて枯れない程度にお金は回ってるんだけれど、ここからどうするのかが希望の役割なんだと感じるようになってきました。そして希望って自分で抱えていてもちっとも現実感が無いので、他人に流通させていかないといけない。つまり、他人にどう希望を流通させるのかってアーキテクチャーを考えるのが次の段階のビジネス設計なんですよ、という結論。がんばろう!
なるほど、と花咲か爺も励まされた気がした。がんばろう!
そして、じゃこしか爺さんが訴えようとした人間にとっての「ひかり」とは「希望」のことなんだと思った。今の世の中には人間がそれを求めて逞しく成長していけるような「希望」が欠けている。そんな希望を若い世代に与えられる逞しい大人が少ない。爺よりずっと若いタクオはすでにそんな大人宣言をしたわけだ。
さらに、こうも思った。じゃこしか爺さんはブログを通してりっぱに希望を流通させているのだ、と。