町の記憶、町の記録

札幌、曇り時々雨。微風。涼しい。風太郎少し回復、散歩に行くと言う。霧雨の中散歩に出る。数日前から空き家の廃庭から通りに伸びたヤマブドウ(山葡萄, Crimson glory vine, Vitis coignetiae)の蔓には大きな葉の陰から熟しはじめた果実が見え隠れしていた。暖簾をくぐるように大きな葉の間にカメラを差し入れ、撮影する。


霧雨の中アメリカフヨウ(亜米利加芙蓉, Common rose mallow, Hibiscus moscheutos)の花が全開していてちょっと驚いた。別のアメリカフヨウの花はくしゃくしゃに萎んでいるのが目についた。まるでビニールの質感だった。


久しぶりにサフラン公園の中をすこしだけ散策する。ナナカマドのまだ橙色の果実を眺め、シラカバの垂れ下がる果穗を眺め、オオバボダイジュの球形の果実を眺める。イチョウの実は確認できなかった。公園内で二本のナナカマド(七竃, Japanese Rowan, Sorbus commixta)が強く剪定され無惨な姿を晒していた。

大きな古い家が取り壊され、更地になった土地が二区画に分けられ、あっという間に一軒の家が建ったかと思ったら、二軒目が建築中である。以前撮った写真がなければ、そこにどんな家が建っていて、その庭にどんな草木が植えられていたか、そしてそれらに私はどんな思いを抱いたかは思い出せなくなっていく。こうして町の記憶がどんどん「書き換え」られていく。町の記録は私の「写真集」の中にある。そのお陰もあって、私は何の痕跡もない場所に、ヌルデを見たり、ノイバラを見たりする。現在に過去を投影するというよりは、「現在」はそういうふうに本当は多層なのだということを確認しているような気がする。どこか映画の(時間的)編集作業を連想する。毎朝、映画を編集するように、私は現実を編集している、と言えるだろうか。