闇でものを見分ける力


グアテマラ伝説集』95頁

だいぶ涼しくなった今も私は時々夏の夜の枕頭の書の一冊、アストゥリアスグアテマラ伝説集』と一緒に寝ている。最近は第六の伝説「春嵐の妖術師」を数節(下)読んでいるうちに、あるいは支笏湖と恵庭岳を連想させる「アティトゥラン湖」の写真(上)を見ているうちに気持ちのよい眠りに入る。そしていい夢を見る。いい夢というのは昼間の頭では思いも寄らないヴィジョンを告げてくれる夢ということである。

 魚たちの向こう側で、海は孤独であった。根たちは、すでに血を失ってしまった無辺の広野で、彗星たちの埋葬に参列した後、疲れて眠ることもできないでいた。彗星たちの侵入を予知すること、その奇襲を避けることは不可能であった。樹は葉を落し、魚たちは飛びはねた。植物の呼吸のリズムは速くなり、弾力に富む侵入者の、凍てついた血と接触することによって、樹液は冷えてしまった。
 小鳥たちの川は、すべての果物に流れこんでいた。魚たちは、艶やかな枝葉に見守られて夜明けを迎えた。根たちは地下で堪えず目を覚ましていた。根、根、根。もっとも年老いた根も。もっとも小さな根も。彼らは、あの腐植土の海のなかに、時として星の破片を、あるいは黄金虫の都市を見いだした。そして、年老いた根はこう説明したものだ------この隕石に乗って、天から蟻がやって来たのだ、と。蚯蚓(みみず)ならそう言うことが出来るだろう。闇でものを見分ける力を失ってはいないのだから。
(93頁)

なんて美しいイメージが連鎖していることか。しかもここには生命世界を構成するのに必要なすべての要素が揃っている。かつてヴェルナー・ヘルツォーク吉増剛造言語化した聴覚に非常に優れているという蟻の「宇宙」はまだしも、蚯蚓の「闇でものを見分ける力」には驚愕した。闇の中で見えない文字のメモを取るのが趣味だった哲学者ジャック・デリダを連想する。人間にとっては「闇」と表象される世界は蚯蚓にとっては光り輝き眩いほどの世界であるに違いないとさえ思えてくる。私の昼間の貧弱な想像力の先端がぐーんと伸びて裏山の土壌にわんさか生息する蚯蚓たちの「知性」にまで届きそうな錯覚をおぼえる。

こんなふざけた爺でも、昼間は常識にがんじがらめになっている。その凝り固まった頭を芯からほぐしてくれるのはこんなイマジネーション溢れる古の言葉の贈り物以外にない。昨日もそのお陰でいい夢を見たのであった。凍てつく空気のなか、雪の大地があっちこっちに傾き続ける上で、落下して死ぬ恐怖を味わったのだった。