書物に対していい加減な態度を取り続けてきた私のような人間にはもったいない粋なメッセージとともに一冊の本が届いた。
書物の翳を愛でる同志として… R
俺、書物の翳、愛でてたかな?
そう言われると、そういう気がしないでもないが、やはり、これは大和田(id:kaiowada)さんのような人にこそふさわしいメッセージではないかと思う。
今福龍太という人は類い稀な「直観」の人である。彼はいつも尋常ならざる直観に導かれて、未踏の地を歩き続ける旅人である。本書を生み出すもとになった直観について彼はこう語る。
……そして私の直観は、世界と書物のあいだの関係を解くためには、世界と書物が接触する現実の界面、すなわち私たちの声や手や身体の揺らぎについてつねに考えつづけねばならないだろう、と告げていた。それはまた同時に、書物のそなえる身体性を深く問いかけるあらたな試みでもあった。(11頁)
ところで、さきほど近所のブックオフに出かけたときのことである。本を買うつもりはなかったが、棚から棚へと背表紙を目で追いながら歩いているうちに、二冊の文庫本を手にしていた。一冊はすでに持っている本。もう一冊はかつて手放し今は手許にはない本である。棚に見つけたときには、おお、こんなところで、何している? と声をかけていた。結局、その二冊を買った。本との出会いもまた、今福さんが言うように、正に「声や手や身体の揺らぎ」そのものだ。もちろん、その場合の「身体」とは本のボディーであると同時に私のボディーでもあり、さらには肉体の皮膚の境界を遥かに超えて広がる記憶と想像が及ぶ限りの場処から成る<世界>でもある。
今、目の前の机上では、三冊の本がこうして出会ったことをお互いに身体的に祝福し合っている(かのように見える)。