現代のアモシュトリ

今福龍太著『身体としての書物』にいろいろとインスパイアーされながら、結局のところ、と思い至ったのは、書物とは人生を最も深いところで導く「暦」のようなものではないかということだった。書物の消息を追うなかで、今福さんにとってもっとも重要な霊感の源泉としてありつづけたように思われるのは、古代アステカの「アモシュトリ」amoxtoli と呼ばれていた一種の折り本である。それは、インディオたちがイチジク属の樹木アマーテの樹皮から作った「アマーテ紙」がアコーディオン状に折り畳まれて横につながってゆく姿をしていた。今福さんによれば、その姿は、アマーテ紙の折り目が、ちょうど時代の激しく大きな変化を示すような「時の形象」そのものであった。そんな「暦」そのもののような書物には、神話的物語や神託、法令や詩が、智慧を意味する「黒」tlilli と「赤」tlapalli の特別な二色のインクで克明に書き込まれていたという。今福さんは問いかける。

本のページを繰るとき、そこに苛烈な暦の断絶があることを指先に意識しながら書物と対峙するような想像力……。こんな繊細な物質的イマジネーションを、いまもわたしたちは保持しているだろうか?(9頁)

この件を読みながら、私は先日簡単に紹介した、宮本常一が嘆きながら克明に記録した旧暦から新暦への「苛烈な暦の断絶」のことを思い出さないわけにはいかなかった。

そこで引用した旧暦の行事と祭りがその後どうなったかについて、宮本常一はこう述べる。

 このような行事は昭和の初めまではつづけていた。それが大正の終わり頃からおそってきた不況で、冗費を省くように政府から言われて生活の簡素化が問題になっていった。そのことから当然旧暦による行事はおこなわないようにとの達しがあり、昭和5年に病気のために郷里へ療養にかえった頃には大正時代の行事は半分も残っていなかった。旧暦の行事は新暦でおこなってもどうも気分が出なかった。ということは祭りの多くは午後から夜へかけておこなわれ、日がくれると月がのぼってくるというのが旧暦の行事の特色であったが、新暦では行事と月夜との関係がまるでなくなったためであろう。(『民俗学の旅』asin:4061591045 58頁)

わたしたちの人生を無意識に運ぶ「暦」とその断絶の推移すべてが書かれた「書物」はありうるか? ありうるとすれば、それはどんな姿をとるのか? 今福さんはこんな楽観を否定するだろうが、現代の「アモシュトリ」は指先の延長を備えた電子メディアのなかに有限なものとして存在しうると想像する。デジタルメディアもまた「寿命」と「死」から免れないことがもはや明らかなのだから。心配なのは、むしろデジタルメディアはおそらく「アマーテ紙」よりもずっと寿命が短いということである。本よりも先に電子メディアが物理的に消滅しないとは誰にも断言できないだろう。(誰かできる?)