旅から帰ると、案の定、不運な出来事が起きた。室蘭入りした12日の夜から妻の母の家に二泊したのだが、最初の夜に、買ったばかりの気に入っていた帽子を外出先でなくしたのである。方々探しまわったが、結局見つからなかった。とほほ、、。
13日は、終日風雨が強く、予定していた墓参りを諦めざるをえなかった。畳の部屋に寝転がって、藤原新也『印度放浪』を読んで過ごす。
恐るべき風景が、ぼくの前にあった。
……しかし、それは平凡な風景だとも言えた。
強いて言えば、それは人の凡庸な好みを、たやすく引き受けてくれるような、たとえば、銭湯の壁画を飾っているペンキ絵のような風景だった。だが、それは、その時、ぼくにとってあまりにも恐ろしい風景だった。
ぼくは自分の目の前にある、この風景を、まったく、その、あるがままに見ていた。そして風景は、ぼくの見る力をはるかに超えた力で、恐ろしいほど、ぼくのことを見すえていた。
しばらく……出来事の完全さを疑う余地を与えることなく、<風景>という、鋭く尖った虚の矢は、ぼくの肉体を完全に貫き通して、動ずることがなかった。(中略)
すべてがバラバラであった
すべてが孤立していた
(中略)
世界のすべてが
その思い思いの
かたちと音と独自の運動によって
風景をかたちづくっていた
そして
そよふく風に落ちる木の葉の音が
ぼくのやさしい肉体を
こともなげに通り過ぎた
真夏の夜
<愛>はこのように
辛辣にぼくの肉体を通過したのであった(288頁〜292頁)
「鋭く尖った虚の矢」のごとき<愛>としての<風景>が貫通するほどに、「やさしい肉体」をもつこと、か、、。
そして、ヒヨドリ(鵯, Brown-eared Bulbul, Hypsipetes amaurotis)が暴風雨の中、何度も庭のブルーベリーの実を盗りに来るのを面白がって観察していて顰蹙を買った。
14日、嘘のように晴れ上がる。太平洋は静かに煌めいていた。街を見おろし、太平洋を見晴るかすことができる山の墓地に墓参りする。祖父母、父母が「眠る」墓前には、缶ビールと瓶入りのインスタントコーヒーが供えられていた。ひと月前に出張がてら墓参りした弟が供えて行ったことを後で知った。墓地はレジャーランドのように車と人で混雑していた。陽射しは強く汗ばむほどだったが、風も強かった。線香に火をつけるのに一苦労した。供え物を狙って多くのカモメが群れていた。