植物のアルファベット

カール・ブロスフェルトの植物写真に倣って、散歩で出会う植物の「形態」を見極めるということを続けるなかで、しかし、どこかでブロスフェルトの写真から漂う死んだ植物の「死臭」に抵抗するように、「生きた植物」の「生きた形」を捉えようとしている自分がいる。矛盾しているだろうか。「形」とはすでに死んだものではないのか。形を捉えることは生きているものを殺すことではないのか。私の撮影行為は、畢竟、殺生に等しいのではないか。そういえば、シャッターを切る瞬間、息を殺す。生きた流れを断ち切る一瞬だ。それは自分も相手も一瞬「殺す」ことではないか。そのようないわば小さな「死」の積み重ねによってしか「生」にアプローチできないのだとすれば、大きな皮肉である。



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ゲルト・マッテンクロットの『カール・ブロスフェルト 植物のアルファベット』という本の中で、かのヴァルター・ベンヤミンがカール・ブロスフェルトの植物写真をいち早く高く評価していたことを初めて知った。さもありなん。

カール・ブロスフェルトの植物写真をいち早く高く評価したのはかのヴァルター・ベンヤミンだった。ベンヤミンによれば、

ブロスフェルトは、われわれの世界像に予見不可能な影響を及ぼすほどの、いわば知覚の棚卸し(inventory)、つまり知覚目録の調査において本分を尽くした。そしてそれによって、次のように語ったモホリ・ナギの正しさを証明した。「写真の限界を予見することは不可能である。写真はつねにそれまで存在しなかったものを創造的に露にする。技術はそのための自然な先駆者である。未来の文盲は文字を書けない者ではなく、写真を撮れない者を意味することになろう」ブロスフェルトの植物写真にあっては、われわれの存在の間際に、思いもかけない場所から、新しいイメージが間欠泉のごとく噴出する。

(三上訳。Gert Mattenklott, Karl Blossfeldt – Alphabet der Pflanzen, Schirmer/Mosel, Munich, 2007, pp.5–6)




ルリギク(瑠璃菊, Stokes' aster, Stokesia laevis



こんな花を咲かせていた(7月22日撮影)



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