花に囲まれた家


 Portrait of Mrs. Menkoine(2009年06月01日)


「めんこいねえのおばあさん」の家は今たくさんのダリアや菊の花に囲まれている。今朝も何回もシャッターを切った。春にはシャクヤクやボタンの花に囲まれていた。花の季節を通して、「これぞ花!」という感じの花が次々と咲き誇っている。その家の前を通りかかると、おばあさんには出会えなくても、あの笑顔を見たような気分になる。

花の写真を撮るときには、その花を育てている人の笑顔が浮ぶ。後から写真を見たときにも、その表情が写真に写っているような気がする。これはあくまで個人的な体験の特殊性で、私個人の体験の記憶に基づいた知覚にすぎないはずだが、下川さん(id:Emmaus)のような人には、そこまで見えるらしいので、恐ろしくも面白い。客観性とか一般性とか普遍性というのとは違う、通底性とでも言ったらいいだろうか。

かつて、下川さんは私のモノクロームの写真に触れながら、「わたし」より先だって存在する「不可視のもの」に言及していた。それは「悲しみ」がそのまま「植えられた樹」のようになってしまった存在だという。そして、「わたし」がそれを見るのではなく、そのような目に見えない「悲しみ色」の樹の方がいつも「わたし」を「見透かしている」。さらに、それがわたしたちにとっての「赤」という色の意味ではないか、と。

そのあたりを「霊」ないし「魂」という言葉でかろうじて掬い上げようとしていたのは、昨年の秋頃だった。


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