仮初めの住み処、懐かしい人生


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清岡卓行は八十三歳の死の年に自分の記憶のなかの断片の情景について次のように書いた。

 長い場合には数十年、短い場合でも数年、私の記憶のなかに断片のままぽつんと孤立をつづけ、ほんのときたま、まったく不意に意識の表面に、それもなぜかそのときは鮮明に、あらわれてくる情景がある。
(中略)
 私は八十歳を超えたころから、これら断片の情景をそのまま放置せず、小説や詩のなかでなくともいいから、とにかく文字で組み上げて一応は堅固に見える書きもののなかに、わずかな年月でも保存したいと思うようになった。
 自分はそのうち死ぬとしても、それら断片の情景がすべて一度も文字でできた仮初めの住み処をもたず、私とともに地上から消えてしまうとすれば、それは物書きであるはずの自分の怠惰のせいではないかといった変な寂しさ、−−他人から見れば滑稽でしかないだろう寂しさを覚えるようになったのである。


  清岡卓行『断片と線』14頁(初出「群像」2006年1月号)



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そして、それに先立って、人生を既視する驚くべき言葉を葉桜に託して何気なく刻んでいた。

 武蔵大和駅

 西武遊園地駅始発で新宿方面へ向かう電車は、しばらく単線を走ってさらにぐんと小さい次の武蔵大和駅に停まる。この駅のプラットフォームを囲む柵のすぐ外側に立つ桜は、数本の枝をプラットフォームの上まで伸ばしており、一か月あまり前には花が咲いていてみごとであった。
 いまは五月中旬の葉桜だ。午後の陽を浴びた豊かな葉の群れがひときわ緑を濃くして、奥深いなにかを暗示し、爽やかな風に静かにそよぎながら、人生とはこんなに懐かしいものだよ、と語りかけているかのようであった。


  清岡卓行『郊外の小さな駅』19頁(初出「朝日新聞」1989年4月28日)