井上究一郎訳、ジャン・グルニエ『孤島』(筑摩書房、1991年)13頁、asin:4480013504
「ノラの声」(2011年11月27日)で引用した井上究一郎が翻訳したジャン・グルニエの『孤島』に収められた「猫のムールー」の一節に端を発する言語(の崩壊)と翻訳(の不可能性)をめぐる小島剛一さんとのメールによる対話は多岐にわたっているのですが、「猫のムールー」の翻訳に関して少なくとも私にとっては驚愕の事実が明らかになりました。日本ではすっかり定着していると思われる猫の名前「ムールー」がフランス語の発音からは大きく隔たっているというのです。小島剛一さんはフランス語からのまともなカタカナ転写にはあり得ない「ムールー」という文字列が気になって、調べてくれたのです。
『Les îles』に出て来る猫の名「Mouloud」は、[mulud]と発音します。標準フランス語で語末の[d]の前で[u]が長母音になることはありません。また、語末以外の音節では、どんな母音も決して長音になりません。フランス人の発音をカタカナ転写すると、一番近いのは「ムルッド」です。これを「ムールー」と転写した人は、「この名前は、アラブ語起源であるため語末のdが黙字にならない」ことを知らず、フランス語の母音の長さに関する規則も知らず、自分の耳で正しく聞き取る能力も無かったのでしょう。それどころか、翻訳に際して知り合いのフランス人に質問してみるという最低限の努力さえもしなかったのです。日本では「Toulouse-Lautrec」を「トゥールーズ・ロートレック」と転写するのが普通のようですし、フランスに何十年も住んでいる日本人でもフランス語がまともに話せる人にはなかなか巡り合いませんから、驚く私の方がおかしいのかもしれません。(12月1日)
えっ? まさか! 本当に驚きました。そこで自分の耳で確かめてみようと思い、フランス人の発音例を探し出して聞いてみました。
私の耳に聞こえる音をカタカナ転写すると、「Mouloud」はたしかに「ムルッド」あるいは「ムルド」であり、「Toulouse-Lautrec」は「トゥルズ・ルトレック」です。他にも似たような例があるのでしょうが、とにかく「ムールー」も「トゥールーズ・ロートレック」もフランス語の発音にできるだけ忠実にカタカナ転写するという規則は守られずに生まれたカタカナ表記であることは間違いありません。では、一体どんな規則によって、「ムールー」と「トゥールーズ・ロートレック」というカタカナ表記は生まれたのか? 井上究一郎はどうして「Mouloud」を「ムールー」とカタカナ表記したのか? そしていつ誰がどうして「Toulouse-Lautrec」を「トゥールーズ・ロートレック」と最初にカタカナ表記したのか? そこには私の知らないどんな暗黙の規則があるのか? その辺りの事情についてご存知の方がいらしたら、是非教えてください。