カムイヌプリ、幌別川(胆振)、来馬川


幌別(ほろべつ)駅



幌別駅前からカムイヌプリ(750m)を望む。



来福橋(らいふくばし、道道144号)の袂から幌別川の上流を望む。カムイヌプリ(750m)の左奥にまだ雪が残る鷲別岳(別名室蘭岳、911m)が見える。幌別川の水源は写真には写っていない幌別岳(892m)である。



来福橋の袂から幌別川の下流、河口近くを望む。左手から流入する細い流れは来馬川(らいばがわ)。河口近くに架かる室蘭本線の鉄橋をちょうど二両編成の列車(未詳)が通過した。その向こう側には幌別橋(国道36号)が架かる。

幌別 ほろべつ

 現在の形でいえば、登別市幌別であるが、原名はホロ・ペッ(poro-pet 大きい・川)である。事実この辺での大川である。明治の初め、松浦武四郎の献言により、幌別郡を作り、鷲別村、幌別村、登別村がその範囲であったが、後三村を合併して幌別村と呼んだ(後町制施行)。近年それを登別町と改名。昭和45年登別市となり、幌別郡を廃止した。現在では幌別川という名はそのままであるが、公式の地名は、海岸より僅かな土地に残されているだけである。なお昔は幌別川をカネ・サシ・ペッという雅名でも呼んだ。「金属の・響く・川」の意。砂金か何かの金属が流れ下っていたことをいったものか。

  山田秀三『北海道の地名』(北海道新聞社、1984年)394頁


たしかに、現在「幌別」という地名は幌別川河口の東側の海岸沿いのごく限られた地域の名(「幌別町」)として残っているにすぎない。

カムイヌプリ

 幌別から山側を見て、左側に大きく聳えている山の名。今の人は鷲別岳と呼んでいるが、アイヌ古老たちは「あの山は幌別岳だよ」と教えてくれた。鷲別岳は鷲別川水源の山であるが、カムイヌプリとは尾根続きになっているのであった。また地図によると、幌別川水源の山に幌別岳と書いてあるが、それとは別の山である。カムイ・ヌプリは「神の・山」の意。幌別の人たちから、神のいます山として崇敬されていた山であろう。

  同書395頁

来馬 らいば

 登別市内の地名、川名。幌別川の川口の処に、来馬川が東から入っていて、その辺はライバの名で呼ばれていた。今登別市の市役所のある一番の中心街は来馬であった。永田地名解が、それについて「ライ・バ(死者を発見する所)」と変な訳をしたので、不詳の地名のように思われて来たが、本当の意味は「ライ・バ。(流れが)死んでいる・川口」の意。川の辺が遅流になり、淀んでいるような姿をいったものであった。諸地に同名が多い。現在は名のもとになった川口の辺は中央町、新川町となり、来馬は関係のない上流の町名になった。

  同書394頁

シノマンペッ(胆振幌別川)

 幌別川本流の、だいたい二股から上の辺をシノマン・ペッと呼んだ。シノマンペッ「←shino-oman-pet 本当に・(山の方に)行っている・川」の意。シノマンは諸方の大川の源流部を呼ぶのに多く使われた言葉である。

  同書396頁


半世紀前の怪しい記憶。夏の暑い日だった。四、五歳の頃、祖母に連れられて、幌別川の上流、人里離れた鷲別岳の麓にある家を訪ねた。祖母の遠い親戚に当たるお婆さんがその家に一人で暮らしていた。家の周りには畑が広がっていた。便所は家から離れた小屋にあった。夜は真っ暗で怖くてひとりでは便所に行けなかった。祖母に手を引かれて行った。そのとき、畑の境界の林の中を漂う大きな火の塊のようなものと、点滅する無数の小さな光を見た。私はひどく怯えたらしい。それがいわゆる火の玉、そしてホタルの光を見た最初だったと思う。半世紀前の妖しい記憶である。


ちなみに、専門家によれば、ホタルは世界に約二千種、日本には四十五種知られているが、北海道に生息するのはヘイケボタルとオバボタルの二種である。


参照