メカスの戦いに関する注

前エントリーのメカスの365日映画紹介は、かなり乱暴で一方的な解釈に基づいた(いつも?)要約だった。要約からこぼれた言葉が次々と頭に浮かんでくるような。要約とはそれでいいのだと思いはするが、それにしても要約的すぎるので、ちょっと補足しておく気持ちになった。

一回だけさーっと見て、聞いて、特に印象に残った言葉だけをピックアップして書いたのが前エントリーだった。メカスの話す、震え、軋み、吃った言葉、それは「英語」なのか?と言いたくなる、英語の衣をかぶったリトアニア語?とにかく気迫はびんびん伝わってくる言葉を、日本語が染み付いた耳で、吉増剛造さんじゃないが、「言語の皮膜」のような場所で耳を澄ましながら、概念というかイメージを、つたないやりかたで、つなごうとしている自分がいることに気づいていた。

人間性」、"humanity"という言葉をメカスは使っていた。人間性に根ざした、人間性を探究するような詩的映像の価値。それのために、彼はある意味ではたしかに「戦って」きたのだ。ハリウッドと同じ土俵では戦ってはこなかった。ハリウッドとは違う土俵での戦い、言い替えれば、新しい土俵を作り出す戦い、それは己の中のおそらくはハリウッド的なるものとの戦いを含んでいたと言えるかもしれない、そんな「戦い」をメカスは戦ってきたのは確かだ。しかしインタビュアーの質問のモードからは「ハリウッド対メカス」みたいな単純な図式にのっかった答えしか期待していないことが如実にかんじられる。だから、メカスは軽くいなすように、戦ってきたわけじゃないと答えるに留めたのに違いない。

そんなメカスの「戦い」の火種は、今やニューヨークではなく、パリに飛び火し燃え盛っているという。68年パリとは逆に。興味深い。メカスは日本、東京とは言わなかったのが、ちょっと残念だった。

紫花菜、勿忘草、蝦夷紫、籬通、そしてX

札幌、晴れ。暖かい。

藻岩山。ちょっと霞んで見えた。

木の花では、ツツジの花はほとんど終わりかけている。クロフネツツジだけは今が盛り。ハクモクレンも、キタコブシも終わりかけ、シモクレンが盛り。サクラの仲間では、ヤマザクラの仲間は終わったか、終わりかけで、里ザクラの仲間はまだ元気だ。しかしサトザクラと言っても、ウメやモモやナシと区別はつくが同定できない種がたくさんあって、未だに混乱している。チシマザクラは覚えた。ネクタリン(桃)は他で見かけてもパッと同定できる自信はない。ハナモモは分かりそう。今朝も六種のサクラっぽい木を観察したが、同定できなかった。

例えば、この木はかなりの存在感で目に飛び込んできた。

近づいて見ると、これから開くのか、すでに凋んでしまったのか判別できない花が沢山ついていた。

これは隣家の庭のシモクレン。他の木の陰になっていたので、今まで気づかなかった。

チシマザクラが咲く庭のボケの白い花が開き始めていた。

これはお気に入りだったエゾヤマザクラ。花は一輪も残っていない。若葉に被われた。

今朝は住宅街ではスズメのさえずりがよく聞こえた。原生林ではヒヨドリ、そして多分ゴジュウカラシジュウカラのさえずりが聞こえた。姿は見なかった。

草花では、チューリップが多くの庭で咲き誇っている。そしてスイセンの仲間が目につく。しかし今朝も自然と道端の野草の花に目が行く。紫の小さな花たちが目に留まった。

これは昨夜mmpoloさんが教えてくださった、ムラサキハナナ(紫花菜, Orychophragmus violaceus)。

これは多分、ワスレナグサ(勿忘草, Myosotis scorpioides, Forget-me-not)。

これは極小の花で、エゾムラサキ蝦夷紫、深山勿忘草, Myosotis sylvatica, Wood forget-me-not)。ここで、今まで気にしていなかった多年性植物(多年草宿根草Perennial plant)と1、2年草(Annual flower)、あるいは球根類との間の違いが、植物のライフスタイルと進化の関係という観点からいろいろと気になり出した。これは宿題。

これは多分、カキドオシ(籬通, Glechoma hederacea subsp. grandis)。

これは調べがつかなかった。変わった花弁の小さな花。

Poetic Cinema nowadays: not NYC but Paris:365Films by Jonas Mekas

ジョナス・メカスによる365日映画、5月、136日目。


Day 136: Jonas Mekas
Wednesday May 16th, 2007
10 min. 07 sec.

my views on positive
and negative
politics, Hollywood
and farming ---

政治的な考え方における
積極的な部分と消極的な部分、
ハリウッド、
そして農業

アンソロジー・フィルム・アーカイブズのオフィスで、姿の見えないインタビュアーの質問に次々と答えるメカス。60年代のアメリカにおける前衛的な芸術運動に関して、ハリウッドつまり娯楽産業化した映画界との関係について、最近のアメリカ、特にニューヨークにおける「ポエティック・シネマ」の動向に関して。

メカスの回答の中で非常に印象的だったは、広い意味でとにかく「戦い」は避けてきたこと、色んな違うものが存在していていいんだということ、フルクサスにしてもビートニクにしても、「精神性」とかが問題だったのではなくて、具体的なライフスタイルこそが問題だったのだということ、そして、実験的、前衛的、芸術的、詩的な映像制作において現在世界で最もホットな場所は残念ながらアメリカのニューヨークではなく、文句なくフランスのパリだということ、その三点だった。

(クレジットに「農業」とあるが、自分は小さな村の農家に育ったが、牛と羊と馬が違うように、映画だって違っていいんだというダイナミックな比喩に使われている。)

パリと言えば、何度も登場したパイプ(Pip Chodorov)を連想せずにはいられない。2月24日に紹介したように、

パイプはニューヨーク生まれの映像作家兼作曲家。ニューヨーク大学などで認知科学パリ大学で映像記号論などを学んだ後、ニューヨークとパリの配給会社で働いた経歴を持つ。その後パリに拠点をおき、Re:Voir Videoと、実験映画のためだけのThe Film Galleryを創設した。