『セメニシュケイの牧歌』のクロライチョウ


クロライチョウ(Black Grouse, Tetrao tetrix)*1


昨日紹介したジョナス・メカスの詩集『森の中で』(書肆山田、1996年)asin:487995375Xと同時に出版されたメカスの第一詩集『セメニシュケイの牧歌』(書肆山田、1996年)asin:4879953741を読み直していて、クロライチョウが気になった。


『セメニシュケイの牧歌』は序詩にはじまり、全部で26の牧歌から成る。メカスが二十歳半ばで書いた故郷セメニシュケイでの幼年時代を追憶する詩集である。ただしふつうの意味での牧歌や望郷の歌とはかなり異質な心の滾りを感じさせる追憶である。それはメカスが追憶した時点がドイツの強制労働収容所、ドイツ各地の難民収容所を経て、1949年ニューヨークに「落ちる」頃にかけての苦しい時代だったことによるだけではなく、序詩の言葉では「たえず遠ざかり、帰らぬもの」としての「私の幼き日の友たち」と「私自身の幼少時代」に対する尋常ではない深く繊細な感受性の故であるように思う。

蘇らせ、更なる血を注ぎこもうと、なおも努めて、------
燃え尽き、引き裂かれ、切り苛まれた心で、
ふり返り、想い出す------、そして、恐らく、
私は泣き叫ぶ、------
(序詩、13頁)

こんな風にして追憶される幼年時代の故郷の描写は幸福な牧歌であるはずがない。

今回読み直してみて印象的だったのは、いわば宇宙論的、黙示論的な音響性とでもいうべき「牧歌」の性格だった。*2「牧歌11」で集中的に描写される「大地の不思議な音楽」、「太陽の弦による/音楽」が非常に魅力的だった。そしてそのような追憶の大きな引き金になっているように感じられたのが、「牧歌1」で二箇所、「牧歌8」で一箇所登場する「曙に啼くクロライチョウの声」だった。聞いたことのない曙の森に響き渡るクロライチョウの啼き声が私にも聞こえる気がした。

クロライチョウ(黒雷鳥, Black Grouse, Tetrao tetrix)。

クロライチョウが気になったのは、昨秋お会いした志村啓子さんが訳したマーリオ・リゴーニステルン『雷鳥の森 』の記憶のせいかもしれなかった。


ちなみに、リトアニア語はインド・ヨーロッパ語のなかでラテン語に比べられる古さを持ち、比較言語学のうえで重要な言語とされているが、日本では唯一人と言っても過言ではないリトアニア語・ラトビア語の専門家である村田郁夫氏の訳業のお陰で、私たちはジョナス・メカスリトアニア語でしか書かれない詩を日本語で読む好運に恵まれている。メカスの第一詩集『セメニシュケイの牧歌』(書肆山田、1996年)の「訳者あとがき」には数回にわたるリトアニア訪問を背景にしてリトアニア語のしかも詩を翻訳することの困難と機微とが謙虚に精確に描かれている。それは本編のメカスの「牧歌」を理解する上で必須の情報を与えてくれるだけでなく、それ自体が実際の旅と重なる「翻訳という旅」の秀逸な日記作品にもなっていて、非常に魅力的である。

*1:This image is in the public domain.

*2:メカスの詩には、『森の中で』においても如実に感じられたダンテの影響、またアグリッパ、さらにはピュタゴラスプラトンにまで遡る「異教」の思想の系譜を辿ることもできるだろう。

雪畑?

東京の娘から雪が降ったと知らせがあった。自転車を漕いでいてカーブで転びそうになった、と。関東地方の雪に慣れていない皆さん、気をつけて。yukioinoさん(id:yukioino)が昨日雪に備えて息子さんに長靴を買ったと書いていた理由が分かった。雪の予報があったのか。知らなかった。札幌は降雪なし。謎の雪の作品には変化なし。

トウモロコシ畑。雪に覆われた空き地や畑を見るのが好きだ。表情豊かな雪面に春から秋までの記憶のなかのイメージが重なる。そういえば、メカスの詩を訳している村田郁夫さんは「畑」と「畠」をきれいに使い分けていた。リトアニア語では菜園や花畑などがある農家の庭のハタケを「ダルジャス」といい、それに「畑」を当て、一般の耕作地を指す「ラウカス」に「畠」を当てていた。このトウモロコシ畑は規模的には畑だが、ある農家の飛び地のような耕作地なので性格的には畠か。日本語としては「畑」も「畠」も国字で、は古くは「白田(ハクデン)」と書き、水のない乾いた田という意味らしい。「白田(シロタ)」というと、雪のある冬の田のことらしい。「雪畑」とか「雪畠」という言葉はないようだ。作ろうか。

『メカスの映画日記』と『Movie Journal』


写真右が『メカスの映画日記 ニュー・アメリカン・シネマの起源 1959〜1971』(asin:4845974061)で、左の原書『Movie Journal The Rise of a New American Cinema, 1959-1971』の翻訳本である。『メカスの映画日記』に慣れた目で、古書で手に入れた原書を初めて見たときの驚きを忘れない。全く別物と言ってもいいくらいに、本としての存在感が余りにも違う。装幀やページ・レイアウトだけでなく、そもそも日記本文の意味内容さえ違うのではないか、と「錯覚」を覚えるほど両者は違う。逆に言えば、一冊の本を翻訳出版するということは、こういうことなのだ。『Movie Journal』がいわば根付いていた土地と日本語環境の大きな違いが、このような原書と翻訳本のあいだの大きな違いを生む。『Movie Journal』の種子か苗が日本語の土地に根付くためには、『メカスの映画日記』、あるいはそれに近い姿を取る必要があった。

ただ、払拭しきれない違和感がくすぶっている。それは『Movie Journal』にあって『メカスの映画日記』に欠けるものに関わる。ひとつは、『Movie Journal』が持つ安っぽさ、痛々しさ、寒々しさ、いかがわしさの雰囲気である。それは実際にメカスが当時1959年から1971年まで呼吸していた、晒されていた空気に相応しいと感じる。その意味で『Movie Journal』が普段着だとすれば、『メカスの映画日記』はよそ行きの出で立ちである。

もうひとつは、『メカスの映画日記』には物理的に継承されなかったものがある。『Movie Journal』に載っている十二点の図版である。この点について『メカスの映画日記』では「凡例6」に「原書本文中に挿入されていたイラストレーション十二点はすべて割愛し、代わりに、各年代の状況を示すため、メカスの写真を中心に中扉ページを構成した。」と記載されている。

なぜすべて割愛したのか、その理由については直接語られていない。日本の読者向けに「代わり」の措置が取られたことが語られているだけである。しかし、本文中のイラストの性格と「中扉」の性格とは異なる。中扉を工夫するのは良いが、それがイラストを割愛する理由にはならない。なぜなら、原書『Movie Journal』本文中の図版はそもそも各年代にメカス「が」目にとめた、メカスの記憶にとって大切なものであるはずだからである。それらは日記本文と対等なメカスのいわば「視線」を代表する貴重な資料でもあると思う。












実際に十二点のイラストレーションを見るだけでも、当時の「空気」が直接的に生々しく伝わってくる気がするのは私だけだろうか。