池澤夏樹「異国の客」:見えない道

昨晩遅くに池澤夏樹さんのメール・マガジン「異国の客」の「053スコットランドの縁ふたつ その1」が何かの符号のようにして届きました。「符合」というのも、それは池澤さんがエディンバラ萱野茂さんの訃報に接した時のことから始まっていたからでした。このブログで5/13に坂本龍一さん経由で辻信一さんによる素晴らしい内容の「萱野茂さん追悼」の文章を紹介したり、授業で学生さんたちにも紹介した「縁」がありました。それが今度は池澤さんの「報告」を通して、萱野茂さんの偉大さをより具体的に学ぶことへとつながり、そしてさらに北海道平取町二風谷→スコットランドのハイランド、ルイス島→沖縄→カナダのケイブ・ブレトンを結ぶ地図には載っていない「見えない道」の発見へと導かれたからでした。

「053スコットランドの縁ふたつ その1」は池澤さんの「旅の心」の中で再生されたヨーロッパの文化的古層と日本の文化的古層の劇的な出会いであると要約できるかもしれませんが、その静謐な「心の旅」に随伴するようにして全文を是非読んでもらいたいと思います。インパラのアーカイブに飛んでもらってもいいのですが、できればここに「植樹するように」転載できないかと思い、発行元のインパラに転載許可を求めるメールを出しました。すると全文を変更せずに掲載するならばという条件で快諾を得ましたので、ここに全文転載します。インパラの広瀬さん、どうもありがとうございます。

異国の客 053
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スコットランドの縁ふたつ その1

5月は3週間ずっとスコットランドに行っていた。
エディンバラにいる時に、友人が「萱野茂さんが亡くなった」と知らせてくれた。以前のように沖縄に住んでいたら北海道まで葬儀に駆けつけたところだが、スコットランドからはむずかしい。海外暮らしや旅行の多い生活だとこういう時に辛い思いをする。
萱野茂さんはアイヌの指導者であり、多くの人にとってそうであるように、ぼくにとってアイヌ語アイヌ文化についての師であった。数年前、自分の母方の先祖の事績を元に小説を書こうと思い立った時、舞台が北海道なのだから、この地の先住の人々にも登場してもらいたいと思った。実際、ぼくの曾祖父の行状として我が家に伝わる逸話の中によくアイヌが登場する。小説では彼らの役割を史実より少し大きくしたいと思った。
我が祖先は元を辿れば淡路島の下級武士である。明治維新の時に北海道の日高に集団で入植し、開拓に努めた。アイヌの側からすれば侵入者だ。ぼくはアイヌとシャモの両方の視点が欲しかったので、ちょっと工夫して、曾祖父の兄をアイヌに対して共感的な人物に仕立てることにした。彼ら兄弟は一時期は産を成したものの、速やかに没落した。そこまでは史実。その理由を作者の一存でアイヌ絡みとする設定を考えた。
そうなるとアイヌ語アイヌ文化についての正しい知識や理解が必須となる。こういうことで間違いは許されない。萱野さんの名は以前から知っていたし、「萱野茂アイヌ語辞典」を文芸時評で取り上げたこともある。お力を借りようと北海道の平取町二風谷へお願いに行った。
お目にかかって快諾を得て、以来何度も通い、多くを教えていただいた。アイヌ語の人名には意味がある。主人公たちそれぞれにふさわしい名を付けることができたのはすべて萱野さんのおかげだった。千歳空港から話の舞台である静内へ取材に行くたびに、途中で萱野さんのいる二風谷に寄ってお話をうかがうのが習慣になった。
そうやってぼくは小説『静かな大地』を書くことができた。書き終えた後も北海道に行けば必ず萱野家に顔を出した。そして、少しずつ萱野さんが老いてゆかれるのを見てきた。それでも去年の8月にお目にかかった時は矍鑠としておられたし、まだまだ大丈夫だと思っていたのだが、この夏の再会はかなわぬこととなった。
訃報に接したのがエディンバラだったことに意味を見出すべきだろうか。萱野さんは2001年にこの町を訪れている。その旅の話を伺った時のことをぼくはよく覚えている。
萱野さんの旅の目的はニール・ゴードン・マンローの追悼だった。
マンローは1863年にエディンバラに生まれて、そこの大学で医学を学び、インド航路の船に船医として勤務、29歳の時に日本に来た。横浜の病院で医師として働く一方、考古学にも造詣があったので、そちらの調査も行い、例えば横浜三ツ沢の貝塚の発掘などをしている。『先史時代の日本』という著書もある。
彼は1933年に北海道に渡り、平取町二風谷にマンロー邸を建てて暮らした。アイヌと親しくなった彼は、9年の後、ここで亡くなる時に、コタンの人々と同じように葬ってほしいと言い残したそうだ。
アイヌ文化の理解者であり、アイヌ民具などのコレクションにも力を入れた。迂闊にも萱野さんには確認しなかったけれど、マンローが亡くなった時に萱野さんは16歳だったのだから、親交があったのではないか。またアイヌの民具の蒐集は萱野さん自身が生涯を掛けた仕事であり、その意味でマンローは先輩にあたる。萱野コレクションはお宅の隣にある「萱野茂二風谷アイヌ資料館」で公開されている。
マンローのコレクションの方はスコットランド・ナショナル博物館に収められ、2001年の日本フェスティバルで公開された。萱野さんがスコットランドに行ったのもこのフェスティバルに合わせてのことだったようだ(NHKが同行して番組を作ったらしいけれど未見)。エディンバラ大学は萱野さんを迎えて卒業生マンローの事績を顕彰する行事を執り行った。
その後で、萱野さん一行はマンロー一族(クラン)の拠点であるフーリス城まで行っている。ニール・ゴードン・マンローはエディンバラで生まれ育ったが、その一族の本拠地はハイランドだ。ディングウォールの先にあるフーリス城は彼らの城である。一族が14世紀に入手したこの由緒ある城の庭園で、萱野さんはニール・ゴードン追悼の儀式をイナウを立ててアイヌプリ(アイヌ風)で行った。そして現在のマンロー一族の長ヘクター・マンローから一族の特別メンバーとして認めるという証書を授かった。ぼくはそれを二風谷のお宅で見せてもらったことがある。
このクランは、確実なところで1369年に亡くなったロバート・マンローまで家系がたどれる。それ以前は、半ば伝説だというが、一族の創始者ドナルド・マンローの没年は一1039年という記録がある。まあそれくらいの名門なのだ。日本に行って50年暮らして亡くなったニール・ゴードンは一族の異端児だったのだろうか。
エディンバラを出たぼくは、インヴァネス経由でルイス島に向かった。その道はフーリス城からさほど遠くないところを通る。グループの旅だったので城まで足を延ばすことはできなかったが、風景は堪能した。そして、ここでは風景が大事だった。
というのも、萱野さんはフーリス城で、「ここの景色を見て、なぜマンローさんが二風谷に住んだかがわかった。ハイランドの美しさは私の郷里に通ずるものがある」と言っているのだ。
たしかにハイランドは北海道に似ている。梅雨がないことでもわかるとおり、北海道の気候はただ平均気温が低いだけでなく、内地とは質が違う。スコットランドの空気の印象は北海道を思わせた。今回のルイス島も、五月の半ばというのに寒かった。秋山ハイキング程度の装備は持って行ったのだが、骨も凍えるほど寒かった(深夜に荒野の真ん中で月の出を待ったりしたからいけないのだが)。
ルイス島ではストーン・サークルをいくつも見た。そして、地元に住み着いた研究者から、これを建設した人々の葬制が古代日本のそれに似ていることを教えられた。遺骸を仮に荒城(あらき)に収めて、しかるべき時間を経て改めて奥津城(おくつき)に本葬する。沖縄でつい最近まで行われていた洗骨の儀礼も同じことだ。ルイス島では仮葬のためのケルンがあって、遺骸はひとまずここに埋められた。そして数年の後、すっかり骨になった遺骸を1キロほど離れたストーン・サークルに運んで、魂魄を天に返したという。
アイヌ文化では送り儀礼がことのほか重視される。人の魂を送る葬礼は言うにおよばず、動物の魂も心を込めて本来の地に返される。いわゆる熊祭りは飼った熊の魂を返す儀式である。人が使った道具さえアイヌは古びたり壊れたりしたからといって捨てることはせず、きちんとその魂を送り返す。萱野さんは博士号を持っていたのだが、博士論文は人間と動物、器物と神々の送り儀礼の研究だった。
ぼくは平取町の葬儀に行けなかったので、ルイス島で一人だけで萱野さんの送りに代わることをしたいと思った。本来アイヌプリの葬礼では故人の事績を神々に向かって伝えるイヨイタッコテという韻文を述べる。1992年に貝澤正さんが亡くなった時、萱野さんは500行からなるアイヌ語のイヨイタッコテを捧げた(『イヨマンテの花矢』所載)。自分にはそんなことはとてもできないと思いながら、短い詩のようなものを土地柄に合わせて英語で書いて、深夜のストーン・サークルでつぶやいた。漢語で言えば「誄(るい)」ということになるか。
ルイス島の丘の上で石英が採集できるところがあって、その日の昼間に行って2つだけ取ってきたのがあった。ぼくは行った先の石などあまり持ち帰らないようにしているのだが、この2つについては土地の神々の許可を得たつもりになった。石英はこすり合わせると光を放つ。摩擦ルミネセンスという現象である。この光を捧げようと思い立って持参し、ストーン・サークルで2つの石をこすり合わせた。ほのかな光が見えた。いつか二風谷に行って、萱野さんの墓前で同じことをしようという目論見なのだが、その光を見るためには深夜に墓地に行かなければならないだろう。<つづく>
池澤夏樹 執筆:2006‐05‐25)
*「異国の客」は『すばる』(集英社)に連載しています。
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ちなみに、文章中「矍鑠」は「かくしゃく」と読みます。また「誄(るい)」とは、『大辞林』によれば、「しのびごと」とも読み、「人の死をいたんで,その人の生前の功徳などを霊にのべること」であり、「誄辞(るいじ)」ともいうそうです。
なお、迂闊なことに今になって『すばる』の連載はメルマガに先行していることを知りました。(なるほど。)7月号に掲載の「スコットランドの縁ふたつ」は上の「その1」とメルマガ未配信の「その2」から構成されています。「その2」で、「道」はカナダに繋がり、そしてそこで非常に魅力的なカナダの作家アリステア・マクラウド(MacLeod,Alistair)が跡づけた複雑な道々へも繋がります。