id:hayakarさんとid:t-pele君と一緒に訪ねた萱野茂二風谷アイヌ資料館の二階にはオーストラリアのアボリジニをはじめ、世界各地の先住ないしは少数民族の生活の道具や工芸品などが貴重な資料として数多く陳列されている。
そこで、青い揺れ動く書体の「レプンクルウタリ」という文字列が目に飛び込んできた。陳列室をナビゲートするための案内板のひとつだった。まるで海岸から遠く離れた青い海原を人力で行く小舟を彷彿とさせる文字列だった。<沖の人>という意味に心を射抜かれた気がして、驚いていた。
何に驚いていたのか。「レプンクルウタリ」の青い震える文字が頭からずっと離れなかった。
驚きの理由が、すこしずつ見えてきた。
不動と思われがちな「陸」からの視線に私は馴染んでしまっている。海を見て育った御陰で、そんな視線への微かな違和感はずっと抱き続けてきた。日本語ではかろうじて「沖」という名詞はあるが、それはあくまで「陸」からかなり離れた不定で不安で曖昧な場所を指すに過ぎない。英語では「沖」に相当する名詞すらない。陸から離れる方向と運動の概念によって「off the shore」などとかろうじて表現する。概念上は日本語と同じで、陸から離れた海上の不定で不安で曖昧な場所を指す。あくまで「陸」が中心なわけだ。
しかし、である。
「レプンクル(ウタリ)」はそれとは全く逆の「沖」からの発想、「沖」から「陸」を見据える逆向きの視線が生み出した概念を明確に表わしている。私の中で「陸」と「沖」が反転し、「沖」が明確なイメージを結ぶ。不動と見えた陸が不安定に、曖昧になる。海の普遍性に気づく。海から陸を見る目が感じられてくる。そういえば、生命進化は海から陸に向かった。また、「見る」こと自体に関しても、例えば眼球の構造は揺れ動く海を閉じ込めたようなものではないか。そもそも私の中にも「海」があり、私は「海」を通して世界を見ている。私も本来「沖の人」なんだ。