厚田もなかと吉増剛造「石狩シーツ」

厚田村
今日は、家人と数年ぶりに石狩河口に出かけました。葦の生い茂る河口付近の岸辺を散策したり、石狩灯台周辺のハマナスなどの海浜植物散策路を歩いたりしました。ハマナスは時期外れで花はほとんど見られませんでしたが、青々とした実をいっぱいつけていました。灯台とは反対側の石狩河口の近くには小樽からも見えるらしい細長い煙突がそびえ立つ白い大きな工場のような建物が見えます。「北石狩衛生センター」、いわゆるゴミの「最終処分場」です。
やっと見つけた一輪。
それから思い立って、冷たい暗色の日本海の怖さを左半身に感じながら、厚田(アツタ)村まで足を伸ばしました。途中、望来(モーライ)村の丘の上に、モアイ像のように海に向かって立つ巨大な2基の風車のすぐ傍を通り過ぎました。巨大な羽がゆっくりと回転していた。厚田村では小さな漁港を控えた静かでゆっくりと時間が流れる中心街を散策し、家人が目に留めた一件の渋いお菓子屋さん、「宮崎一菓子店」に立ち寄りました。残念なことに一番人気のせんべいは売り切れでした。しかし、皮の意匠(デザイン)が超クール、シュールな「シャコもなか」と「ハタハタもなか」を買いました。小豆のこしあんの「シャコ最中」と白インゲン豆の白あんの「ハタハタ最中」。商品名は「厚田もなか」なんですが、お店の外には大きく堂々と「シャコもなか」、「ハタハタもなか」と筆書きされた品書きが貼り出されていました。これが両方とも素朴な甘さの餡でとても美味しかった。お店を切り盛りしていたのは、いい雰囲気のおばあさんでした。
「シャコもなか」
実は、石狩河口から望来(モーライ)村を経て厚田村にいたる土地は、私の中では、舞踏家の大野一雄さんや版画家の大島龍さん、そして特に詩人の吉増剛造さんと深くつながった貴重なイメージの鉱脈が埋もれた場所なんです。吉増さんの代表作のひとつである「石狩シーツ」という長詩(CDにもなりましたが)の言葉が生まれたのは、今日私が家人と辿った場所、そして今年に入って財政再建団体入りした夕張市です。その「石狩シーツ」が書き上がるまで、吉増さんは石狩河口に7、8年通い続け、そこに座り続けたと話していました。「石狩シーツ」の行間、字間、字の中に流れる時の複雑さと深さは私の想像を絶するものですが、私にとってもっと驚きだったのは、「キタイシカリエイセイセンター(北石狩衛生センター)」や「モーライノオカ(望来の丘)」という名前が詩の中に、実在の建物や丘のように、「存在」しているように感じたことでした。そして特に「キタイシカリエイセイセンター(北石狩衛生センター)」という言葉は私の脳の深いところに「棘」のように刺さったまま、もう10年以上が過ぎてしまいました。その棘の正体が今日実際に北石狩衛生センターをちゃんと見たおかげで、ようやく少し分かってきたような気がしています。
例えば、観光地にもなっている石狩河口周辺の実在的シンボルはいうまでもなく石狩灯台ですが、石狩灯台がイメージの中心にあるかぎり、石狩河口や石狩川を見たことにはならない、ひいては北海道、日本、世界を見たことにはならない、ということです。かつてはそれでよかったかもしれないが、少なくとも現在は北石狩衛生センターこそが「石狩灯台」なのだということです。世界をちゃんと見るには北石狩衛生センターを一種の「灯台」のようにして見ることができるようにならなければいけない。そうでなければ、あなたは何も見たとは言えない、と。長詩「石狩シーツ」に「石狩灯台」が登場しないのは、「北石狩衛生センター」こそが私たち現代人の存在と心の深いところに刺さった棘であると同時に逆説的な意味での「灯台」だからなのだと、今日になって、10年かかって、思いました。
石狩灯台の傍から北石狩衛生センターを望む
(最初の地図ですが、「石狩灯台」や「北石狩衛生センター」では表示されませんでした。)