ウィキペディアの岐路

ちょっとひっかかるCNET Japanの記事が目に留まった。
2006/08/24「ドイツ語版ウィキペディア、新機能を搭載へ--信頼性の確保を目指す」
http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000056023,20210507,00.htm
これに関連して、ウィキペディアの共同創設者ウェールズさんがすでに、上のドイツにおけるユーザーの「荒らし行為」をできないような機能が制限された「stable version」について語った記事もある。
2006/08/07「ウィキペディアウェールズ氏、ウィキメディア財団のこれからを語る」
http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000056023,20193547,00.htm

ここで「新機能」と言われているのは、実は一種の「検閲」機能のことであり、「不特定多数無限大」への「信頼」とはまったくかけ離れた旧来の「信頼性」の確保が目的である。最初は「新機能?へぇー、一体なんだろう?」と期待して記事を読んで、私はがっかりした。この動きが他の言語版にも波及すれば、Wikipediaは前進どころか退行的プロジェクトに陥ってしまう、と危惧した。
もちろん、好ましくない「ノイズ」が入るのは避けがたい。しかし、だからといって、ノイズをシャットアウトする閉じたシステムを内部に作ってしまうことは、長い目で見たときには、システム全体にとってよくない負荷を与えることになってしまうような気がする。一般的にも、ノイズを排除して成立するコミュニケーション空間は、それはそれでいずれ「息苦しい」ものになる。
むしろ、ノイズが必然的に減少していくような、あくまで開かれた仕組みを考案することはできないのだろうか?そのような方向での進化こそが、インターネットの真の可能性という観点からも求められているような気がしてならない。俗に言えば、「大目に見る」というスタンスを保持しつつ、できればノイズを抱え込みながら、一歩ずつ前進できればいい、という構えで取り組んでもらいたいな。これは、机上の空論、非現実的な理想主義の戯言にすぎないのだろうか?どうしても、一定のクローズドな、閉じた仕組みの導入は避けられないのか?しかし、どうもこの動きにはエスタブリッシュメント志向の臭いがする。