「記憶する住宅」の美崎さんからのこの上なく嬉しいコメント攻勢にまだ応戦しきれていないが、それぞれに応答するだけではもったいないので、今までいただいたコメントの中から、ハッとさせられた部分を「美崎語録」としてまとめておきたい。貴重な発想のトリガー集でもある。
美崎薫さんの「記憶する住宅」訪問記事が掲載されたのはAXISの最新号ではなく、5,6月号でした。ついさっき、本屋に行って知りました。おちょこちょいです。
http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20060909#c1159595058
修正によって、作品は作品を超えることがある。つまり複製によって新たにアウラは生まれうる。
体験の構造=タグ=blog=日記=自分、というような流れがあるのかなと思います。
http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20060929#c1159592906
わたしが100万枚でも、まだとても足りないというのはこういうときに感じることです。もっと世界を知りたい。
わたしに到達する世界はつねに過去の世界なのです。これを知ったときに、そもそも人間が仮想的に生きているのなら、それをデジタルで加速しても、人間の許容量を超えることは少なそうだから、実害はないだろう、と考えました。
ソクラテスは、「知識は想起である」といいました。想起こそが重要であり、それはインタラクションであり、立ち上ってくるものです。コンピュータの内部にはないのです。自分のなかに、それを受けとめるものが熟成されなければ、価値は伝わらないのだなぁと思います。
記録から想起へ。そこで付与する価値観。
人生はやり直せると思っています。ある事柄があり、そのときにはできなかったことを、コンピュータで支援してあとでできるようになってフォローして、できることは、できたといってよいのではないかと思うわけです。
http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20060930#c1159594447
「偶有性」は、わたしはインプットが閾値を超えれば、溢れるほど起きるようになると思っています。
Aしかインプットがないとき、偶有性はAが起きたときにしか起こりませんが、インプットがABCに増えると、偶有性はABCが起きたときに起きます。インプットが100万もあれば、ほとんどあらゆるものがつながって見えます。それは僥倖でもなんでもなくて、必然のもたらすもの、世界の全体性を見る目を養うことなのだろうと感じているのです。