路地的なるもの

今朝、出勤途中、毎朝散歩の復路になる道で車を一時停車してフロントガラス越しに藻岩山を撮った。

写りの悪い下手な写真だ。自分が今住む町の見慣れた風景の一部が写っている写真を見ながら、月島からも消えかかっている路地のことを思った。路地とは他人どうしが絶妙の距離で支え合う親密な空間と言えるだろうか。

これは2月9日に中山さん(id:taknakayama)が撮ってくださった月島のとある路地で心を奪われている私の姿であるが、そうして実際に月島の路地をほんの少しだけだが体験したとはいえ、路地は私の中では想像上の空間でしかない。

そもそも今まで住んだ場所にはそのような空間はなかった。しかし、空間はなかったが、あるタイプの年配者の言動にそのような空間を彷彿とさせる他人との距離感、路地感覚、「路地的なるもの」を感じ取ってきたことも事実だ。

だから、初めて訪れた場所で「何か」が決定的に欠けているというある種の虚しさを感じるときには、それは「路地的なるもの」を覚えないからだ、と思うようになった。それは月島に現実にまだ少しかろうじて残っているような路地でなくともよい。一軒の家の風情でも、偶然出会って挨拶を交わす見知らぬ人の表情や風情でもよい。

その意味では、毎日朝の散歩で性懲りもなく同じような写真を撮りながら私が探しているのはやはり「路地」なのだと思う。そうしながら、ほとんど無駄な抵抗とは知りつつも、私は今住む町で「路地的なるもの」を再現しようとしている、あるいは演じようとしているような気がする。