音に入る LaMonte Young:365Films by Jonas Mekas

ジョナス・メカスによる365日映画、63日目。

Day 63: Jonas Mekas


Sunday March. 4th, 2007
4 min. 41 sec.

LaMonte Young
prepares his show
in Avignon

ラ・モンテ・ヤングが、
アビニヨンで
ショーの準備をする

2000年フランス政府の招待でラ・モンテ・ヤングとマリアン・ザジーラ(奥さん)はアビニヨンの聖ジョセフ教会で教会の独特の音響効果とザジーラによる特殊照明を舞台にした四ヶ月間の"Dream House"というインスタレーションを行った。過去のパフォーマンスの映像も休みなく流されたという。メカスのカメラはその舞台となる薄暗い教会の内部で、各種の光に反応しているかに見える。ラ・モンテ・ヤングのピアノ演奏の様子や"Dream House"の文字を映し出すスクリーン、明るい隣の部屋がのぞく扉の開いた入口、調整中のザジーラによる特殊照明、ステンドグラス、大きなガラス扉、格子窓。そして驚いたことに、ほんの一瞬、カメラは教会の外に出る。外光がなんと解放的なことか。外気を伝わってくる自然音。列車の走行音も微かに聞こえる。再び内に戻ったカメラはラ・モンテ・ヤングの演奏の様子、天井を照らす特殊照明、格子窓、そして最後に"Dream House"の文字を捉える。メカスのカメラの動きはこのインスターレーションを厳しく批評しているように感じた。

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ラ・モンテ・ヤング(LaMonte Young, 1935-)は2月15日に登場したトニー・コンラッド(Tony Conrad, 1940-)の兄貴分にあたり、前衛音楽の歴史(History of Avantgarde Music)上、ミニマリズム(Minimalism)の四巨頭の筆頭に挙げられる。精神的動向はフルクサスに属する。

石原進吾さんの「音楽を見るということ」の中で、ラ・モンテ・ヤング自身の「音に入る」という言葉が目に留まった。これが彼のミニマル・ミュージックの本質だと直感した。また、石原さんが引用している細野晴臣さんの言葉は示唆的だった。孫引きする。

ミニマルというのは感覚を繊細にさせるための白紙状態を作り出す作業だったような気がする。ロックを聴いていると、そう言う繊細な聴き分けが出来なくなっちゃうから。一回感覚をフラットに戻して、何も起こらない音楽、音楽だけじゃなくて感覚も、感情を排した虚無的な、悪く言えば無感動状態のものに戻して、さらにその先へいくための準備だと思うのね。(『urウル NO.5』)

しかし、ラ・モンテ・ヤングの場合は「その先」を求めているようには思えない。覚悟して「そこ」に留まりつづけているという印象が強い。"Nearly Stationary"。つまり、商業主義やポピュラー路線とはもちろん一線を画し、そして進歩とか発展という観念とも無縁な反復的深化とでも言えるだろうか。あるいは変な言い方だが、「常に始まり続ける」(always beginning)とでも言えるだろうか。退廃的停滞あるいは現実逃避とも見えるミニマル・ミュージックには、健康的に見える進歩や発展に潜む嘘に静かに抵抗しているのかもしれない。よく分からない。「宗教」との接点が微妙な問題を孕んでいるようにも感じる。

ちなみにここにも書かれているように、「レコードとしてリリースされた作品が非常に少ないことと、いまだに来日していないことによって一般 の認知度は極端に低く、神秘性だけが加速度的に増幅しているのが実情です。しかもレコードはすべて廃盤で入手困難であるために、特にLPは廃盤商人の錬金薬となっています。」したがって、ここで6番目に「スゴイ音源が発掘された」と紹介されている"JOHN CALE, TONY CONRAD, ANGUS MACLISE, LA MONTE YOUNG, MARIAN ZAZEELA / INSIDE THE DREAM SYNDICATE VOLUME 1:DAY OF NIAGARA (1965)"もとっくに「完売!」だった。

ついでに、YouTubeでラ・モンテ・ヤング+マリアン・ザジーラ(奥さん)の8つに分割されたインタビューを聞くことができる。

というわけで、こうしてメカスのフィルムでラ・モンテ・ヤングの「コンサート」ならぬ「ショー」の本番よりもある意味では貴重な準備風景を覗き、その「音に入る」体験に微かに触れることができて幸運である。