札幌の「背中」を見るように:豊羽鉱山跡

毎日の暮らしの中で、私の目は北を向いている。毎朝南側から藻岩山に向かって歩くせいかもしれないが、私の目は鳥になって藻岩山を越えて日本海を望むと同時に、水になって、豊平川を下り、石狩川に合流し、石狩湾、日本海に注ぐ。時に、もう少し大きな視野を抱くこともある。北海道全体、さらには日本列島全体を想い描くときには、私の目は太平洋を、南の方を向く。遠く奄美群島が見える。

土地を身体に見立てたヴィジョンの中で、札幌にかぎって云えば、私が現在住む場所から南(南西)の定山渓方面の土地はいわば「背中」に相当する。普段は背後に感じている土地である。そちらを訪ねるときには、自然と心も「振り向く」感触を覚えるから不思議なものだ。

最近、「振り向いて」幾つかの川を辿り、先人たちの足跡を追い始めた。少しずつ見えてくることがある。と同時にわずか200年足らず歴史を遡っただけで、その先は闇の向こう、という事実に唖然としもする。

日曜日の午後に、以前から気にかかっていた昨年2006年3月31日に閉山したばかりの豊羽鉱山(とよはこうざん)の跡を訪ねた。インジウム(Indium, In)の生産で世界一を誇った知る人ぞ知る日本有数の鉱山であった。そんな鉱山跡が我が家から一時間足らず、定山渓温泉街から30分足らずの山中にある。とはいえ、印象としては「陸の孤島」に近い。よくも、こんな山奥に往時は5000人もの人びとが暮らしていたと驚くような土地である。









鉱山としての概要はウェブ上で容易に知ることができる。また、閉山前後に訪ねた人の報告、鉱山で働いていた人の記録、幼い頃鉱山の「長屋」に住んでいた人の回想録を読むこともできる。豊羽鉱山について虱潰し的に調べていて、気になることが二つあった。ひとつは意外なことに豊羽鉱山がいつ誰によって発見されたかは明らかではないということだった。神保子虎「北海道庁地質報文」(明治25年)と石川貞治、横山壮次郎「北海道庁地質報文(明治27年)にそのような記載があるらしい。もうひとつは、定山渓温泉に関することで、豊羽鉱山の操業に伴って敷設された鉄道によって温泉は本格的に創業したが、その知られる「起源」はアイヌ「以降」だということである。アイヌの情報を頼りに、和人としては松浦武四郎が初めて1856年に、そして美泉定山が1866年に訪ねたらしいが、肝心のアイヌの人たちの「そこ」に関わる記録が、少なくともウェブ上には存在しない。それはアイヌが文字を持たなかったからという理由だけでは済まされない問題だと思う。事実われわれは松浦武四郎、特に美泉定山「以前の歴史」を知ることができない。そしてもちろん、豊羽鉱山アイヌの関係に関する情報も少なくともウェブ上には存在しない。

振り返っても見ることのできない自分の背中を見ようとしている気分になる。

豊羽鉱山に関する主なウェブページを、未分類であるが、備忘録代わりに以下にリンクしておく。