地名の記憶:「カイ」の謎

『横浜逍遥亭』のご亭主中山さんを17日から北海道にお迎えするにあたって、私は長年自分が暮らしてきた北海道という土地を、中山さんの「横浜の目」を幾分かお借りして、改めて見直してきた。それを反映させた俄づくりの「蝦夷地巡礼計画」の成果はいずれ中山さんが実際に見、撮影することになる北海道の未知の姿として現れるだろう。

しかし、私は現在の呼称「北海道」を無自覚に「蝦夷地」と言い替えた自分に、ちょっと待てよ、とストップをかけた。「蝦夷」って、誰の命名だったっけ?と疑問がわいたのだった。ウェブ上の情報に限ってだが、少し調べてみただけで、現在「北海道」と呼ばれる土地の命名を巡る歴史には知らないことがたくさんあって面白かった。本当は、灯台下暗しも甚だしく、情けなかった。

そこで一番気になった「カイ」という音、言葉の謎に関して、知り得た限りの情報を引用しておくことにする。

(北海道は)かつてはアイヌが住む土地で、アイヌ語では「アイヌモシリ」(Ainu mosir, 「人間の住む土地」の意)と呼ばれた。日本人(和人)は近代に至るまでアイヌ蝦夷(えぞ)、その土地を蝦夷地(えぞち)もしくは北州、十州島などと呼んでいたが、明治政府は開拓使の設置に伴い名称の変更を検討し、蝦夷地探査やアイヌとの交流を続けていた松浦武四郎は政府に建白書を提出、「北加伊(きたかい)道」「海北道」「海東道」「日高見(ひたかみ)道」「東北道」「千島道」の6案を提示した。結局「北加伊道」を基本として採用し、海北道との折衷案として、また、律令制時代の五畿七道東海道南海道西海道の呼称に倣う形として「北海道」と命名された。なお、松浦は建白書において「北加伊道」案はアイヌが自らを「カイ」と呼んでいる事から考案したと説明しているが、言語学者金田一京助は、当時のそのような事実を示す証拠は見つかっていないと唱えている。
Wikipedia - 北海道

これとほぼ同内容の記述。

1857年(安政4年)に松浦武四郎天塩川流域を訪れ、現在の音威子府村筬島(おさしま)付近でアイヌの長老の元に宿泊、それによりアイヌによる北海道(蝦夷地)の通称「カイナー」の意味を知る。「カイ」はこの国に生まれた者、「ナー」は尊称であった。アイヌと深い交流のあった松浦武四郎は、蝦夷地を命名する際に「アイヌの国」を意味する「カイ」を取り入れ「北加伊道」という名を提案、これがのちに「北海道」となった。しかし近代から現代のアイヌ語研究では「カイ」に「この国に生まれた者」という意味は見出せず、この記述は謎の一つとなっている。
Wikipedia - 音威子府村

ところが、件の「カイ」について「外部」の視点からの記述に出会った。

蝦夷については、カイという音(アイヌ人はモンゴル人から「クイ」ロシア人からは「クリル」と呼ばれた)に通じる呼び名があった
Wikipedia - 蝦夷

これに関連して、岩手県立博物館の主任専門学芸員、女鹿潤哉さんが、「アイヌに対する他集団の呼称」の検討から次のように結論している。

アイヌが隣人たちによっておおむねクイなどに近い音で呼ばれていたことがわかる
「『えみし』社会の誕生と後世のアイヌへと連なる同族意識」

こうして、「カイ」←「クイ」という線が浮かんできた。

ぼんやりとだが、見えてきたことは、要するに、「北海道」という地名には、同じ土地に対する先住民であるアイヌの人たちの視線、近隣の異民族の視点、そして侵略者、植民者としての和人の視点の抗争の歴史が潜んでいるということである。

そして、一方では、そもそも「北海道」を「蝦夷地」と言い替えることは厳密には古代以来の日本列島内における東北、北方異民族に対する蔑称を無自覚に継承していることになるということを認識した。だが、他方では私は「アイヌモシリ」と素直に呼ぶこともできない。とりあえず、「北海道」と呼びながら、そう呼ばれるに至った歴史、記憶を反芻するしかない。

なお、13日に先住民の民族自決や先祖伝来の土地の権利などを認める「先住民族の権利に関する宣言」が、国連総会で採決されたが、周知のように日本政府はアイヌ民族先住民族と認めていない。現に町村外相は14日の記者会見で「先住民族の定義が国際的に議論が収斂されていない」ことを理由に「結論を下せる状況にない」と語ることで、「事実」問題を「定義」問題にすり替えて、「侵略」と「略奪」の歴史的事実を隠蔽しようとする意思を露骨に見せた。町村外相は二風谷(にぶだに)を訪ねたことがあるのだろうか。

17日には北海道(蝦夷地、カイ、アイヌモシリ)に生まれて初めて降り立つことになる中山さんをまずはそのまま二風谷へ拉致する計画である。