アルチュール・ランボー「岬」:「海角殿」という小林秀雄の訳語



一昨日の「ジョナス・メカスによる365日映画」に登場したアルチュール・ランボー(Jean-Nicolas-Arthur Rimbaud, 1854-1891)に関して、手元にあった懐かしい薄い本、小林秀雄訳『地獄の季節』(岩波文庫、1982年第27刷発行)を何度も手に取ってぱらぱらと捲っていた。二十歳前後の頃には目もくれなかった一編の詩に惹かれた。「地獄の季節」(Une Saison en Enfer)ではなく、併収された「飾画」(Les Illuminations)のなかの「岬」(Promontoire)という散文詩だった。小林秀雄訳はこうである。

 金色の曙か、そぞろに身も顫(ふる)う暮方か、俺たちを乗せた、二本マストのささやかな帆船は、沖合からこの別墅(べっしょ)と付属地とを、正面から見渡す。それは、エピールやペロポネーズの半島のように、日本の巨島やアラビヤのように、拡がっている。神殿は、使節の還りを迎えて輝き、近代海防の素晴らしい展望、砂丘は生き生きとした花と乱酔とに飾られて、カルタゴの大運河、模糊たるヴェニスの堤防。エトナの噴煙のまどろみ、花と水との氷河の亀裂。ドイツの白楊樹に取り巻かれた洗濯場、『日本の樹』の頂きを傾ける奇妙な公園の斜面、スカーボロとかブルックリンの『ロワイヤル』とか『グランド』とか名のつきそうな円形の門構えが立ち並び、鉄道は、この『ホテル』の結構に寄り添うて、穴を穿って、傾斜する。これは、イタリヤ、アメリカ、アジヤと歴史上の大建築の粋を集め、今、その窓や露台は、爽やかな風を受け、酒と燈火に満ち満ちて、旅人や高雅な人々の心に放たれ、------昼となれば、巧みを尽くしたタランテラの踊り、------谷間のリトゥルネルの曲を揃え、『海角殿』の正面を、夢のように装飾する。(107頁)

原文はこちら門司邦雄(Kunio Monji, 1949-)氏による最近の和訳と詳しい解説はこちら

「海角殿」という小林秀雄の訳語に唸った。「海角」とは文字通り海に角のように突き出た岬のことである。

門司氏が指摘するように、原文末尾は専門家の間でも解釈の分かれるところらしい。


「岬」の手書き原稿の末尾の部分です。
出典:Rimbaud / L'oeuvre integrale manuscrite / VERS NOUVEAUX ILLUMINATIONS 1872-1875
Les editions Textuel, 1996

活字にしてしまうと、

du Palais.Promontoire.
A.R. (Illuminations)

と無表情になってしまうが、門司氏は「手書き原稿を見て、ランボーは、この詩を書上げ、サインをして、総タイトルを書いた後、終わり具合が落ち着かないので『岬だ。』を書き加えたのではないかと考えました。Promontoire. の筆跡は、後で書き加えられたように見えます。」という理由から、この末尾部分を「宮殿の正面を素晴らしく飾るに任せている。岬だ。」と訳した。門司氏の判断は「翻訳」としては正しいのだと思う。だが、ひとたび、詩の翻訳というものが、日本語による詩作という域に入ったときには、小林秀雄の訳もまた間違ってはいない、というか、非常に鋭いものであるように感じる。フランス語の語法上の問題ではなく、正に詩的ヴィジョンの問題として見た時に、"Palais(宮殿)"と"Promontoire(岬)"が並ぶ言語的事実としての姿は言わば地理的かつ心的形象としては「繋がっている」と小林秀雄は感得していたに違いない。それが詩というものだ、と。「海角殿」という異様な造語には、詩の翻訳に関する小林秀雄の詩人としての洞察が籠められているように感じた。

地獄の季節 (岩波文庫)

地獄の季節 (岩波文庫)