生命維持装置としての詩:『アイギ詩集』


メカスの365日映画のおかげで旧ソ連のチュヴァシ出身のゲンナジイ・アイギという名の詩人を初めて知った。

それで興味が湧いて、メカスが強く薦めていた"FIELD - RUSSIA"(New Directions, 2007)を注文したり、メカスがカメラで行を追った詩「SONG FOR MYSELF」(p.51)の一部を訳してみたり、アイギその人についてちょっと調べてみたりした。

"FIELD - RUSSIA"(New Directions, 2007)が届いたときのことも書いた。

そのときに初めて書肆山田から『アイギ詩集』(1997年)asin:4879954004が出版されていたことを知り、すぐに注文した。それが先日届いた。

訳者はあくまで平仮名表記の「たなかあきみつ」氏である。たなかあきみつ氏によるあとがきが面白かった。それは「あとがき」とは題されず、「アイギ、そしてアイギ圏」と題された、非常に気合いの籠った居合い抜きのようなアイギ論だった。それがなかなか凄かった。例えば、こうである。

人間としての生命維持に欠かせない詩がいまも存在しているとするならば、アイギの詩は、ツェラン以後ますます見出しがたくなっている生命維持装置そのものだろう。アイギ、一行とて書かざる日はなし。(204頁)

「生命維持装置」には恐れ入った。そして合点がいった。詩とは生命維持装置なんだ。

メカスはしょっちゅう自分の映画が目指すのは詩であり、俳句であると語った。そして詩や俳句が表しているもののことを、にわかにはとらえがたいニュアンスで「実在」とか「真実」とか「本質」と呼んだ。それは言い替えれば、Emmausさん(id:Emmaus)がよく言っている、向こう側からやってくるもの、私に訪れるもの、なんだと思う。ところが、私のようなこらえ性のない人間はそういうものの訪れを待つ根気に欠ける。でも、人間はそういうものを栄養にしてしか「本来の生命」を維持できないような厄介で脆い存在なのだ、と合点がいった。合点はいったが、待つことは本当に難しい。