活字を通して、活字の彼方へ

いよいよ明日は酒井博史さん主催の第一回活版印刷ワークショップ「活字よ、こんにちは!」が日章堂印房で開催される。私はオブザーバーのような立場で参加するつもりである。ワクワクしている。


数日前から私自身の文字や活字に対する関心の源は何だったっけ、とちょっと考えていた。そんな脈絡で昨日は10年以上前からその文字を深く見据えたデザインの仕事をずっと注目し続けてきた杉浦康平さんの『アジアの本・文字・デザイン』に変則的な言及をしたのだった。どうも私は人類の様々な記憶の形態に関心があって、その一環として、いやその根源として、文字や活字に惹かれているらしい。

ところで、杉浦康平編著『アジアの本・文字・デザイン』には、杉浦康平氏の「インドの文字 民衆の中にひそむ美意識の豊かさ」と題された30年以上前に書かれた文章が再掲されている(初出は昭和47年3月14日の「読売新聞」)。とても印象深い魅力的な文章だ。


036〜037頁

それは杉浦康平さんが1972年にユネスコを通じたインド政府からの依頼でインド公用文字(デーバナーガリー)の活字開発セミナーのための基礎調査のためにインドを訪れたときの体験記である。それはその後の杉浦康平さんの世界を唸らせるような数々のデザインの仕事の根幹に関わる体験だったと思われる。


036〜037頁

杉浦康平さんはインド滞在中に全身を鋭く直撃するような深い体験を重ねたことを非常に丁寧に分かりやすく書いている。その衝撃はどこから来たかたというと、いわばインドが鏡になって、そこに余りに貧相な自己の姿すなわち「現代文明」が次々と映し出されたことから来た。例えば、五感の分離を当たり前として生きる自己の姿、特に文字というものを音から切り離された形つまり活字としてしか体験できなくなっているおのれの貧しい姿を目に見せられて驚愕し、時に暗然となったという。

私はふと、書道の習慣を失った自己をかえりみて、暗然となった。活字文化が周囲をおおい始めたとき、だれにも読めてだれのものでもない活字という社会化された文字形態が、私たちの周囲から、肉体化したコトバを消し去っていったのではないだろうか。

現代の情報社会というものの底流を形成した、文字の「活字化」。読者層を切りひろげてゆく過程で文字が内包する魔性を切り捨て、文字の形態だけを印刷して音読が黙読に変わってゆく。同時に、目に見えない精神と物質の分離作用が触発されたのではないか…と痛切に反省させられた。

もちろん、これは単純な活字批判ではない。われわれはもはや活字以前には引き返せない。しかし、活字以前の豊かな体験の養分を活字に注ぎこむ、吹き込むことはできるだろう。それが書体設計とタイポグラフィーを含めたデザインの仕事の基本になるのだと思う。

それに、印刷された結果としての文字、活字ではなく、印刷される前の活字そのものを見たり触れたりして、それらが作られる過程を想像したり、場合によっては彫刻の現場に立ち会ったりする体験、またそのような活字を自分で組んだり、様々な圧で印刷したりする体験は、印刷物上で半透明と化した文字のなかに堆積した様々な記憶を呼び覚まし、杉浦さんのいう「活字文化」に肉体化したコトバを取り戻すためのひとつのきっかけになるのではないかと秘かに思っている。そういうわけで、明日の第一回活版印刷ワークショップはとても楽しみである。