メディアの寿命、私の寿命

危なっかしいことに、金ちゃんが「記録の問題」という名の大木の根っこを引き抜こうとしている。メディアの寿命をバラしちゃうよ、と発表しちゃった。まだ「まえがき」だけど、ちょっと「搦め」過ぎの余興もあって楽しめるよ。

つまり、デジタルデータが数千年にもわたって存続するかどうかってのは、畢竟、メディアの寿命(注6)にかかってるってわけなんさ。なので、次回より、メディアの寿命について、あれこれ詮索するつもりだよ」ってこと。

注6:ちょっとだけ厳密に言うと、寿命の長短はどーでもいいの。重要なのは、寿命をある程度正確に予測できるかどーかってところ。1年しかもたないことが正確に分かってんなら、毎年、メディアの書き換えをすればいいだけ。でも、正確な寿命がよー分からん場合、不必要と思われるくらい書き換えをしておかないと、心配で夜も寝られないでしょ。

これを読んで、余命いくばくもないかもしれない爺は自分の寿命のことを考えずにはいられなかった。罪なエントリーである。もちろん、これは褒め言葉、念のため。人生では、寿命の長短はどーでもいい、とはなかなか言い切れないが、さりとて、寿命をある程度正確に予測できちゃったら、それはそれで人生の醍醐味がなくなってしまうのではないかなあと思ったりした。でも、自分の寿命がある程度正確に予測できれば、その「時」までに、やるべきことをやっとかなきゃ、と思うようになって、ちゃんとやって(たぶん)、遺される家族に余計な迷惑をかけずに済むという大きな利点もあるかもしれない。

人生の真実は、いつ寿命が切れるか心配で夜も寝られないはずの不安をそっとヴェールに包んで時間を運ぶことにあるとすれば(文学的すぎる)、メディアの寿命という根本問題は、実は私やあなたの人生の問題にも深く繋がってるってことね。だよね?

ところで、「おおげさっぱに言って」の「おおげさっぱ」は「おおげさ+おおざっぱ」の合成語?