『濹東綺譚』のなかのマルクス

濹東(ぼくとう)綺譚 (岩波文庫)

濹東(ぼくとう)綺譚 (岩波文庫)

『濹東綺譚』の中には一箇所だけ「マルクス」が登場する。

マルクスを論じていた人が朱子学を奉ずるようになったのは、進化ではなくして別の物に変わったのである。

(156頁)

これは、「わたくし」が尊敬する帚葉翁(そうようおう)なるある意味で永井荷風本人の分身とも感じられる爺(じじい)が頻出する「作後贅言」の中である。その帚葉翁の生涯についてはこう簡潔に記されている。

わたくしは翁の不遇なる生涯を思返して、それはあたかも、待っていた赤電車を眼前に逸しながら、狼狽の色を示さなかった態度によく似ていたような心持ちがした。翁は郷里の師範学校を出て、中年にして東京に来り、海軍省文書課、慶応義塾図書館、書肆一誠堂編輯部その他に勤務したが、永くその職にいず、晩年は専ら鉛槧(えんざん)に従事したが、これさえ多くは失敗に終った。けれども翁は深く悲しむ様子もなく、閑散の生涯を利用して、震災後市井の風俗を観察して自ら娯(たの)しみとしていた。翁と交わるものはその悠々たる様子を見て、郷里には資産があるとものと思っていたが、昭和十年の春俄に世を去った時、その家には古書と甲冑と盆栽との外、一銭の蓄もなかった事を知った。

(173頁)

花咲か爺としては気になる存在感である。