オカイコサン(お蚕さん)


ヤマグワ(山桑, Mulberry, Morus bombycis


近所のYさんが亡くなってもう3年経つ。主を失った家と庭はそのままだ。人が住まなくなった家からは少しずつ確実に体温のようなものが消えていくのが分かる。そして少しずつ自然に還っていくその庭を眺めるたびに、毎日庭の手入れに余念のなかったYさんの姿が今でも目に浮かぶ。それでもYさんが丹誠こめて育てていた植物たちは毎年健気に花を咲かせ、実をつけている。まるで主が帰ってくるのをいつまでも待っているかのように。今年もまた通りに枝を伸ばした桑の木が実をたくさんつけた。数日前から黒く熟した実が目立つようになった。それとは知らずにその桑の木の下に自転車をとめて、近所にチラシを配っていた見知らぬお婆さんに出会った。私がカメラを向ける方に目をやって、初めて桑の実に気づいて、驚いていた。彼女はYさんのことを知っていた。完熟したひとつを採って彼女に手渡した。笑顔ですぐに口に入れて懐かしい味ねえ、こんなにたくさんなっていたのねえ、放っとくのはもったいないわねえと目を輝かせていた。彼女としばしYさんの思い出話に花が咲いた。このあたりには桑の木なんてもうないと思っていたという。私もここともう一ヵ所しか知らないと応じると、オカイコサン(お蚕さん)を飼うこともなくなったからねえと彼女はしみじみとした口調で言った。「オカイコサン(お蚕さん)」という響き、言葉に体ごと一気にどこか遠い、もしかしたら彼女が生まれ育ったところかもしれない、山里の村に運ばれたような不思議な気分になった。