兵藤裕己(Hiromi Hyodo, 1950–)著『琵琶法師―<異界>を語る人びと』(岩波新書)を迷わず買った。テーマもさることながら、帯表の「演唱の実像を伝える稀少な映像DVD付き」、つまり付録に俄然惹かれた。子供の頃から付録やオマケに弱い。それにしても新書にDVD? 新書初の試みだという(本書「あとがき」201頁)。カバー折り返しにはこうある。
モノ語りとは<異界>のざわめきに声を与え、伝えることである------皇族や将軍に仕える奏者として、あるいは民間の宗教芸能者として、聖と俗、貴と賤、あの世とこの世の<あいだ>に立つ盲目の語り手、琵琶法師。古代から近代まで、この列島の社会に存在した彼らの実像を浮き彫りにする。「最後の琵琶法師」による演唱の希少な記録映像を付す。
「最後の琵琶法師」?
山鹿良之演唱
「俊徳丸」三段目(部分)
撮影:兵藤裕己
「最後の琵琶法師」とは山鹿良之(やましかよしゆき)なる人物のようだ。本書「『俊徳丸』DVDについて」にはこう書かれている。
本書の付録として、1989年3月12日〜16日収録した山鹿良之演唱の「俊徳丸」のDVDをつけた。
九州の琵琶法師(座頭・盲僧)によって、「俊徳丸」が、「小栗判官」「葛の葉」などとともに伝承されていたことは、はやく折口信夫によって報告されている(「壱岐民間伝承訪記」)。いずれも五段から七段前後におよぶ長編の段物(語り物)だが、それらの全段通しの映像資料は、私の手もとにあるのが、おそらく唯一とおもう。ただし、いずれもコンパクトなビデオ機材が普及した80年代後半以降、つまり山鹿良之の琵琶法師としての最晩年の映像である。
収録した場所は山鹿の自宅(熊本県南関(なんかん)町小原(こばら))の居間である。まず3月12日に、「俊徳丸」の前段として「あぜかけ姫」全二段を語ってもらい、翌13日に、「俊徳丸」全七段のうち一段目と二段目、14日に三段目(語りなおしをふくめて二回)、15日に四段目と五段目、16日に六段目と七段目を語ってもらった。DVDにおさめた箇所は、三段目のなかから、俊徳丸の継母のおすわが、清水寺に丑(うし)の刻参りをし、楠の大木に俊徳丸のひな形(わら人形)をはりつけ、七夜のあいだ呪い釘を打つくだり(約20分)である。
「俊徳丸」における継母の丑の刻参りのくだりは、古来さまざまに脚色・翻案されてきたこの物語のなかでも、とくに有名な場面である。たとえば、現在もよく上演される寺山修司の戯曲、「身毒丸(しんとくまる)」でも、継母が呪い釘を打つ場面は、演出家の工夫がこらされる大きな見せ場になっている。
なお映像には字幕を入れて、フシを注記した。九州の座頭・盲僧琵琶の段物演唱では、八種類あまりのフシ(細分化すると、その数倍)が使われる。195頁〜196頁
山鹿良之演唱の「俊徳丸」の録音(映像)資料として、兵藤裕己氏の手もとには、全四段、全五段、全七段のヴァージョンがあって、何段で語るかによって、物語の細部に異同や増減が見られるという。また、もっとも標準的な展開をしめすとみられる全七段ヴァージョンで、演唱時間は約六時間半ということである(197頁)。見てみたい、聴いてみたい。それは、それこそ、モノ語りのなかで、「あの世とこの世の<あいだ>に立つ」体験となる予感がする。
DVDを早速見た。あっという間の20分だった。物が乱雑に置かれた居間を急遽スタジオにして撮影したことがわかるほのぼのとした雰囲気の中にも、「最後の琵琶法師」山鹿良之の演奏と謡には底知れぬ凄みを感じた。たしかに「字幕」は必要だったが、言葉の意味を越えて「語り」のパワー、強度に圧倒された。凄い。盲目の老ブルーズ歌手のようだ。かっこいい! ブラインド・ウィリー・ジョンソンを連想した。素晴らしい記録映像である。
ところで、青池憲司監督のドキュメンタリー『琵琶法師 山鹿良之』(1992年)の存在とそれが今夏中野で上映されること、1994年に木村理郎著『肥後琵琶弾き 山鹿良之夜咄―人は最後の琵琶法師というけれど』(三一書房)asin:4380942260 が出ていること、1997年に代表曲集の3枚組CD asin:B000N3SY7U が出ていること、そして「最後の琵琶法師」山鹿良之(1901–1996)には片山旭星(1950–)という弟子がいること、などを知って嬉しくなった。詳しくは下のリンク先を参照してください。
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