節目


牧野さん(http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20090901/p2)はとても喜んでくれた。四、五日前に、牧野さんが撮り損ねたと残念がっていたトランペットの写真を数枚封筒に入れて新聞受けに挟んでおいたのだった。通称トランペットとは、巨大な黄色の花を垂れ下げるキダチチョウセンアサガオのこと。牧野さんちの大きな庭ではオレンジのコスモスが風に揺れていた。その向こう側、庭の隅っこで、小さな椅子に腰掛けたまま、牧野さんは最近脚の状態があまりよくない、雑草抜きをしている姿が目に入った。トランペットはうまく撮ることができなかった。何度挑戦してもダメだった。だから撮った写真を牧野さんに渡すことはしなかった。しかし、自分が撮り損ねたことをずいぶんと残念がっているのを知って、いい写真じゃないけど、今年の夏の思い出のひとつにでもなれば、と思い直して数枚プリントして届けたのだった。牧野さんはとても喜んでくれた。お世辞でも、去年ご自分で撮った写真よりも綺麗に撮れていると言っていたく感謝された。「オレンジコスモスの押し花を作ってこっそりお宅に届けようと思ったんだけど、お宅を知らないから、、」と嬉しいことも言って下さった。そのお気持ちだけを大切にいただいた。


当たり前のことだけど、行動は書いたことの先を、書けなかったことの中を、暗中模索しながら進む。例えば、写真を撮るときには、写真とは何かについて書いたことなど全然考えていない。面と向かった相手をただ見る。ああでもない、こうでもない、と色んな角度や距離で見る。何回もシャッターを切る。撮れた、と感じる場合は少ない。ダメだ、と諦める場合が圧倒的に多い。体験を積むしかない。場数を踏むしかない。とにかく「同じ」ということがない。同じ植物の同じ個体を毎日撮り続けても、毎日違う。気象条件によって、光、空気、風は毎日全然違う。同じ植物の同じ個体に向かう場合でさえ、<相手>は無限に変化する。「被写体」なんて口実にすぎない。そしてこちらも無限に変化している。その両者の交渉に終わりはない。その終わりのない交渉の有り様の一瞬が切り取られる、あるいは映画フィルムの一こまのごとくに凍結される。フリーズ・フレーム。それは人生の小さな<節目>のような気もする。そんな節目は他人にとってのささやかな小さな、時には大きな節目にもなりうる。そこで人は一瞬交わる。写真の上で交わるということが起こる。そんな気がする。


私の下手くそな写真が、牧野さんの人生のちっちゃな節目になればいいと思う。