夕方、「めんこいねえのおばあさん」こと帆足(ほあし)さんのご主人から電話があった。カミさんが取り次いだ。何事か、とちょっと不安が脳裏をよぎったが、用件を聞いて安堵した。今朝もいつものように私が花の写真を撮りに来るのを、写真のお礼の野菜を用意して、待っていてくださったという。「いやあ、そうでしたか、それはどうもすみません。たまたま今朝は違う道を通っちゃって、お宅には寄りませんでした。昨日はまた菊の花を撮らせてもらったんですが、お留守だったようで。お宅の前でばったり出会ったGさんと、帆足さんは忙しい人だからなあ、と話してました。すれ違いですね」「そうかい、あはは。それじゃ、明日待ってるから、声かけて」「わかりました。わざわざどうもありがとうございます」そういうことだった。そんなすれ違いのおかげで、帆足さんのハートに深く触れたような気がした。
実は、私の中では、ただで撮らせてもらった代わりに写真を差し上げることは、かえって相手に負担をかけることになるのではないかという疑いの念が頭をもたげはじめていた。だから、撮りたいからといって、他人の庭の花を撮り続けることに少し躊躇しはじめてもいた。カミさんは端(はな)からずうずうしい行為だと言って反対だった。そうか、やっぱり、ずうずうしいか、と思いはじめていたのだ。町内の方々は、庭の植物の写真を撮られることは何とも思っていないし、むしろ注目されることが嬉しい様子でもある。だが、私にはどこか罪悪感があって、それが「ただで撮らせてもらっているお礼ですから」という言葉になる。そして町内の方々は、写真にはお金を払うものだという思いがとても強い。だから、善意で写真をプレゼントする行為は、町内の方々にとって、かえって心に負担をかけることになる。……
しかし、そう思いながらも、きっと撮り続けるだろう。そして「押し売り」みたいな<写真配達夫>を続けることだろう。それが正しいことなのかどこか間違ったことなのかは分からないが。
ところで、下川さんの遠い応答(http://d.hatena.ne.jp/Emmaus/20090907/1252294601)を読んで、すれ違い、って面白いなと改めて思った。誤解や誤読こそ、己の立ち位置を深く抉るように見直すチャンスであり、関係やコミュニケーションにとっての糧である、みたいなことを何度も書いてきた。それを再確認できた気分だった。下川さんの写真観に言寄せて、私なりの写真観とブログ観を表明したエントリー(http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20090906/p2)に対して、下川さんはご自身の写真体験とブログ体験を深く広く掬い上げるような、下川さんの写真に関する表現に倣えば、「対象にぴしっと焦点があった深く覚醒した」素晴らしいエントリーを私への応答として上げてくださった。嬉しかったのは言うまでもない。しかし、下川さんの言葉は、私が書いたつもりのことには、焦点が合っていなかった。ずれていた。でもずれて深いからこそ、ぐっと胸に迫る力があった。だからこそ、面白い。私が使う「面白い」とか「愉快だ」は最高の賛辞である。ずれているからこそ、そこに「下川さん」がいる、という現実をひしひしと感じることができる。私が焦点を当てたつもりの地平とは違う地平を下川さんは見ている。それは以前から分かっている。私は私で違う地平を拓こうともがきながら、暴走気味なエントリーを連発している。何ひとつとってみても、下川さんと私は違う。違うものを見ている。でも、だからこそ、面白い。その本当の面白さは、しかし、ここまである意味で混乱と紛糾を招き入れなければ、はっきりとはしなかったと思う。生意気なことは百も承知の上で、私は下川さんに食ってかかった。人間として尊敬していなければできないことだ。それに対して下川さんは、全力で歯向かってきた。それが何よりも嬉しい。そうでなければ。馴れ合いはごめんだ。とは言え、私は下川さんが懐を開いて見せる世界に留まるつもりはない。留まれない。たとえ、一人になったとしてもだ。下川さんが必死に衛ろうとする世界の外に私はいる。私から見れば、私が放浪する世界の中に点在するオアシスのようだ。これ以上、変な喩えは慎もう。最後に、写真の話に戻せば、私は下川さんが嫌っているらしい「写真配達夫」みたいなことを続けるつもりである。下川さんとはいつか酒を酌み交わせることを楽しみにしている。殴られても、オーケー。笑い。