昨日の午後タクオ(平岡さん)を研究室に迎えて有志の学生たちを交えて長時間にわたって延々と色んなことを話し合った。楽しかった。写真は話題として上がった多数の本のうちの一冊である。夕方から大学正門前のやきとり大吉へ場所を移して話し続けた。潮時を見計らって大吉を出てコンビニで生ハムとゴーダチーズとオレンジジュースを買ってから研究室に戻り、タクオの手土産の白ワインを飲みながら話し続けた。話題は生病死を深く巡った。最後までしっかりと付き合った石上君と別れたのは午前三時だった。タクオはタクシーでホテルへ、石上君は自転車でアパートへ、私は車を置いてタクシーで帰宅した。一昔前十年前タクオは学生だった。十年たって第一線で働くプロとしてこの十年間の経験の蓄積の方法を己のすべてを曝け出すようにして熱く語り続けてくれた。自分という土地を本気で本質的に耕し始めた学生にとってはこの上なく刺激的で生きた授業にもなったに違いない。私にとっては十年前の学生と現在の学生が対面する場に十年前も今も教師を生業とする自分が立ち会う機会のもつ意味は大きく、感慨も深かった。今の私の学生との接し方は十年前に比べてどう変化しどう深まっただろうかと考えていた。どうでもいいことだが、狭い現実の中での私の客観的な評価は教師失格に違いない。しかし絶えず忍び寄りいつの間にか個人を空洞化させる気持ちの悪い見えにくい敵といつも戦ってきた実感がある。そしてもっと広い現実の中では失格の意味は反転することを楽観的に信じつづけてきた。昨夜は、それは間違いでなかったことを証してくれるような何重もの祝福的な出会いでもあった。
今日の午後、車を取りに久しぶりにバスを乗りついで大学に向かった。自家用車を運転しているときとは全く違う風景がバスの窓越しに展開する。バスの走行停車のリズム、がら空きの車内に虚ろに響くアナウンスの音声、車内独特の臭い、などの刺激によって、いつしか心も身体も旅のモードに入る。首にぶら下げたデジカメはバッテリー切れだった。携帯電話のカメラで目にとまったものを撮影し続けた。途中地下鉄真駒内駅前バスターミナルで81番線のバスを待つ30分ほどの間にポケットに突っ込んであった辺見庸『抵抗論』(講談社文庫)を立ったまま読んだ。水平線と地平線が接続する彼方に向かって走り消え入る沿岸道と電信柱のモノクローム写真、中平卓馬のカバー写真がとても魅力的で、書店で衝動買いした本だ。収録された文章は2000年代前半の時代状況に反発して書かれたものばかりだが、状況と文脈を超えて現在の私の心境に触れる言葉が多かった。次々と出発する81番線以外のバスが視界を掠める。2004年3月初出のエッセイはこう結ばれていた。「この国の一見穏和なファシズムの波動は、私がいたあのパレードの光と影をも歪めていたのではなかろうか。そのためなのだ、われわれの身体は本来あるべき怒りの位相からずいぶんずれて動いているようだ。覚めてあやかしの閾を撃つ。メディア知や国家知を徹して疑う。怒りの内発を抑えない。一人びとりが内面に自分だけのそれぞれに質の異なったミニマムの戦線を築く。そこから街頭にうってでるか、いや、いや、街頭にうってでるだけが能ではなかろう。どこにも行かずただひたすら内攻し、その果てに日常にクラックを走らせるだけでもいい。この壮大な反動に見合う、自分独自の抵抗のありようを思い描かなくてはならない。ときに激しい怒りを身体で表現する。そうしたら、いつかまた路面がゆらゆらと揺れる日が訪れるのだろうか」(29頁〜30頁)