予感

ブログは複雑である。ブログの様相は見方によって大きく変化する。それにつれて心も大きく揺れる。私は一方では、ブログを「宛先のない公開お手紙」と穏やかに呼んできた。だが他方では、ブログを「出版(の最終形態)」、「作品」、「ライフワーク」とやや挑発的に呼んできた。これらの表現は大げさに言えば出版における意識「革命」を意図している。またブログの現状に関して「この現状に不満であり、残された時間はあまりないと思っているからかもしれません。もっと遠くまで行けるはずだと感じているからかもしれません」とも書いた。これも自分だけの話ではなく、挑発の文脈に置かれていた。これに対して近藤さん(id:CUSCUS)が返してくれた「長い長い遺言」という表現が印象的だった。それを瞬時に「誰が読むか分からない誰にも届かないかもしれない長い長い手紙」と翻訳していた。

ブログの理由(なぜ書くか)に関しては、書きたいことがあって書き続ける。もっとよく書けるはずだと思って書き続ける。それで充分だと思う。書きたくなければ書かなければいい。書けない、書かない理由すら、書きたいと思えば書けばいい。誰もそれを止めない。しかし、今や、書かれたものが誰にどう届くかということに対する感受性こそが問題だとも思う。他方、ブログの意義は誰にも決められない。それを受け取る人それぞれとの間の関係によってある程度決まると言えるだけだ。そしてそこには私とあなたの間の世界観や現実感の違いが反映する。ここで生ずる微妙な問題は、世界観や現実感の違いに優劣あるいは正誤はあるのかという問題である。これに関して、山内さんは意見の対立が優劣を競うに任せるなら、「全体の不幸」につながりかねないという危惧を表明した上で、「傍観者」の存在の意義について触れた。私はその違いや対立そのものを噛み砕いていわば「第三の道」「未知の場」に抜ける可能性を示唆した。傍観者の存在の意義も含めて、一般論はここで終わる。

ここからは意見の相違、対立の具体的な場面における評価軸の設定の問題に移る。そんな評価軸はあるのかと思われるかもしれない。あるかないかは微妙であると言えなくもない。ひとつ拠り所にできそうなのは、時代状況の変化に関わる評価軸である。例えば、ある時代に支配的な共時的な「物語」や「世界観」の通時的な変化が一定の根拠と説得力をもって言えるなら、当事者が意識的にか無意識的に加担する物語や世界観の「古さ」や「新しさ」について評価することはある範囲で可能だろう。例えば、あなたが囚われている物語、世界観はすでに古い、と。この場合の「古い」の意味は、すでに世の中では違う位相の物語や世界観が支配的になっていて、あなたの加担する物語や世界観ではよりよく生きることができない、それらを他人に強要することは、よりよき生を阻害することになってしまう、ということである。また、いうまでもなく、たとえ「古い」物語や世界観に浸っていたとしても、それで幸せだと感じて生きることは出来る。昨日は、前エントリーでも触れたように、「ゼロ年代の想像力」を主題にして、このような評価軸を設定することの可能性をはじめとする様々な問題系を俎上に載せ、具体的なエピソードも数多く取り上げながら、タクオと話し続けたのだった。

彼との対話を通して、冒頭に書いた出版観について私の中で次第に明確になっていったことがある。そもそもブログを「出版」と考えるべきだという私の主張には、独り相撲の観が強いが、出版をパッケージ化された商品としての本のビジネスと考える人たちへの挑発の意図が籠められていた。彼らの出版観は端的に「古い」と独断していた。「情報」のある水準で本を解体し、ということは本を否定し、その上でブログの内部に取り込み、パッケージ化不可能な「理想の本」をウェブページ上に再構築しているのだといういわば形而上学的傾向が強かった。それはそれで間違っていたとは思わない。しかし、その段階では、私の中にはまだまだ「本かブログか」という固定した対立の構図が強く働いていたに違いない。タクオとの対話を通じて、パッケージ化された商品としての出版物と「ダラダラと続く」ブログとの間のもっとずっと生産的な接合形式が見いだせるかもしれないという予感が生まれた。つまり、本を肯定した上でブログにつなげる方法の可能性である。