ハンプリ、こだわりを解きほぐすこと

こだわり−−これを朝鮮語ではハンという。漢字では<恨>だが、日本語の恨みとは異なる。ハンには返すという発想はなく、プリ(解きほぐすこと)が期待される。(野村伸一『巫と芸能者のアジア 芸能者とは何をするのか』中公新書、8頁)


どうしようもないこだわりを解きほぐすために巡礼のような、遠い旅のような読書をしている気がする。





「芸能と差別」の深層―三国連太郎・沖浦和光対談 (ちくま文庫)



娘巡礼記 (岩波文庫)



わが六道の闇夜 (1977年) (中公文庫)

 私を語るこの一文が、事実そのとおりのことを書けるとは思えない。記憶ほどあぶなっかしいものはないし、また、事実を語るということもむずかしい。私という人間は、ペンをとると、たとえば、その日の「日記」を一枚書いてさえ、きびしくいえば、どこかに嘘を書く。記憶ちがいを書く。これでは、事実そのままを完全に記録することは出来ない。それで、そのような癖を、なるべく、自制し、私という人間が、どういう育ち方をして、今日のようなひねくれた心の持ち主になったのか、そこらあたりの事情を、出来るかぎり書いてみたいと思いたったのが、この文章である。「わが六道の闇夜」と題したが、六道は闇路だという意味で他意はない。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上。お釈迦さまはうまいことをいったものだ。私は今日も六趣の世界を手さぐりで、闇夜を歩いている。仏さまも神さまもまだ見たことがない。(水上勉『わが六道の闇夜』中公文庫、7頁)


語られ、書かれるものが虚と実のないまぜであるだけでなく、本を読むという現実の行為もまた半面虚であることを感じながら、次々と串刺しにするような読書を続けるうちに、思いがけず「父母未生以前(ぶもみしょういぜん)の自己」(水上勉『わが六道の闇夜』中公文庫、5頁)にも逢着し、気づいたら朝鮮半島にいたのだった。



アリラン峠の旅人たち―聞き書朝鮮民衆の世界 (1982年)



巫(かんなぎ)と芸能者のアジア―芸能者とは何をするのか (中公新書)


野村伸一によれば、巫(かんなぎ)と芸能者は「カミの器」である。

…アジアのカミはにぎやかにうたい、おどり、サケものむが、突然かたくなに口を閉じてしまうことがある。その間、器としてのかれらは世の痛みを身に負い、ときには「時代遅れ」という性懲りもない蔑視を浴びる。だが、人びとはやがてまたこの器をたずねるのだ。なぜならかれらカミの器は世にあふれた効能書の歌ではなく、ぶかっこうな死をとげた身近なカミたちの歌をうたうからである。

(中略)

このもつれた旅は果てしなく遠いにちがいない。こんな、いわば道なき道をくる人がいるのか否かも定かではないが、この辺りでささやかながら、道標を残して置くのも旅人の礼儀ではあろう。(野村伸一『巫と芸能者のアジア 芸能者とは何をするのか』中公新書、5頁)


野村さん、来てしまいましたよ。