「蛍川」に登場する盲女


螢川・泥の河 (新潮文庫)


富山を舞台にした宮本輝の小説「蛍川」(1977)には、千代の追想の中で、越前(福井)に旅した重竜と千代の前に三味線を弾く盲目の女が登場する場面がある。その女は「盲目で、両目は白く濁っていたが、越前の瞽女と呼ばれる人とはまた違った類いの女らしかった」(新潮文庫、141頁)と説明されている箇所に、どう違ったのだろうか、とひっかかった。小説の「現在」は「昭和37年の3月の末」(99頁)から6月にかけてであり、千代の回想は「15年前の冬」(138頁)とあるから、昭和22年、敗戦後まもなくの頃である。

「芸者でも呼ぶか……」
 千代は嫌がったが、重竜は手を叩いて番頭を呼んだ。もう遅すぎますよ、いまから来る芸者は、芸なしのあれ用でと番頭が笑った。
 番頭はいったん席を外すと、しばらくしてまた戻って来た。もしよろしければ、三味線を弾かしていただきたいという女がいると伝えた。
「おう、弾いてくれェ」
 重竜はそう言いながら、炬燵の中で千代の足首を握った。
 五十近い小柄な女が番頭に案内されて部屋に入って来た。盲目で、両目は白く濁っていたが、越前の瞽女と呼ばれる人とはまた違った類いの女らしかった。
 女は黙って頭を下げると、顔を少し天井に向けてしばらくじっとしていた。何か匂いを嗅がれているような気がして、千代は落ち着かなかった。
 女はその風貌とは似ても似つかない烈しい撥(ばち)さばきで、短い曲を弾き終えると、
「歌も入れましょうか?」
 と訊いた。
「いや、歌はええちゃ。ずっと勝手に弾いとってくれ。……それからさっき頼んだ酒はもうええがや」
 番頭がさがると、女は大きく深呼吸し息を整え、それから撥の尻を一度舐めた。そしてまた烈しく弾き始めた。怖気だつほど澄んだ音色であった。いつしか千代は盲目の女の奏でる暗く力強い音調の中にひき込まれていった。重竜も千代の足首を握ったまま、女の撥さばきに視線を投げていた。
 夜も更けて番頭が迎えに来るまで、女は三味線を弾きつづけた。幾筋もの汗を顔から首筋へと流して撥を糸に叩きつづけながら、女はかすかに唇を動かしていた。まだまだ、もっと、もっと、とつぶやいているように千代には思えた。黄色い電灯の光が、三味線の音とともにじわじわ薄暗くなっていった。一滴だと透明なのに、むつみ合うと鉛色になる−−盲目の女の手首の一振り一振りは、越前の海に滴に似て、この肌寒い部屋の空気をいっそう暗い冷たいものに変えていった。
「こんなに弾いたのは、戦争が終わってから始めてですちゃ」
 と女は言った。重竜は額をはっきりと女に伝えながら、金を渡した。
「番頭にはあんたからはやらんでええがや」
 重竜は迎えに来た番頭にも金を与えた。(141頁〜142頁)


「こんなに弾いたのは、戦争が終わってから始めてですちゃ」という盲女の言葉が印象的である。



瞽女―信仰と芸能


瞽女は「第二次大戦後一挙に瓦解し、ほぼ終息したかにみえた」(鈴木昭英瞽女高志書院、1996年、41頁)とも言われる。彼女はかつは瞽女だったのではないか、と勝手な想像が膨らんだ。その盲女の人生に踏み込んだ物語が聞きたくなるくだりだった。しかし盲女の弾く三味線の音は、「蛍川」全篇に通奏低音のように絶えず鳴り響いていると感じた。



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宮成照子編『瞽女の記憶』(桂書房、1998年)


瞽女といえば、越後(新潟)の瞽女を思い浮かべるが、新潟以外にも多くの瞽女がいたことがすでの多くの調査、研究によって明らかにされている。例えば、民族音楽学の専門家で特に江戸時代の民衆音楽を研究し、瞽女の実態と瞽女唄に関する広範なフィールドワークで知られ、浩瀚な研究書『瞽女瞽女唄』(名古屋大学出版会、2007年)も出しているジェラルド・グローマー(Gerald Groemer)は「加賀藩瞽女瞽女唄」の中で次のように述べている。

 新潟県とその周辺を巡業しながら、三味線を弾いたり唄を歌ったりする、俗に「瞽女」という門付け芸人の活動が昭和40年代頃から、多くの研究者の注目を引くようになった。その結果として、彼女たちの実態が少しずつ明らかになってきた。しかし新潟県以外にも、多くの瞽女が存在し、民衆の歌謡文化に貢献したのである。とくに、富山県、石川県、岐阜県福井県などにおいて、大勢の瞽女が江戸時間から活動し、口頭伝承の重要な担い手となっていた。今日では北陸地方諸県の瞽女はほぼ完全に消滅し、瞽女たちの唄を覚えている古老の存在さえも珍しくなってきている。従って、瞽女の研究は時間との戦いであり、民族音楽学の急務であるといわざるをえない。(宮成照子編『瞽女の記憶』桂書房、1998年、154頁)


また、グローマーによれば、江戸時代には「盲女」と「瞽女」は峻別されていなかったという。

 江戸時代の富山市瞽女については、記録が甚だ不足しているが、市の「盲女」に関する記録がいくつか存在している。当時は「盲女」と「瞽女」は峻別されていないと思われるので、「盲女」の内にも三味線を弾いたり唄を歌ったりするなど、瞽女同様の活動をした者がいたと当然考えられる。(同書156頁)


グローマーの指摘には、かつて盲女は瞽女あるいは同様の稼業に就くしかなかった貧しい時代があったという意味が透けて見える。


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