『梁塵秘抄』に有名な遊女の歌がある。
遊女(あそび)の好むもの
雜芸(ざふげい) 鼓 小端舟(こはしぶね)
簦翳(おほがささ)し 艫取女(ともとりめ)
男の愛祈る百大夫
『梁塵秘抄』(380)
この歌の「鼓・小端舟・簦翳・艫取女」のすべてが収められている場面が 法然上人絵伝に描かれていることも有名だが、「女人も往生できる!」と説いた法然上人の乗る船に小端舟で近づく遊女たちの姿が微笑ましい。
波静かな室泊(むろのとまり)の海面に、法然上人を四国へ送る流人船が着いた。船中には75歳の老上人、供の僧侶、護送する官人たちが座し、極楽往生の教えを求めて漕ぎ寄せる遊女の「小端舟(こはしぶね)」を静かに見守っている。垂髪・作眉で小袿(こうちぎ)・緋(ひ)の袴を着け、小脇に鼓をかかえた遊女。その後にひかえる「簦(おおがさ)かざし」の女と、艪(ろ)をおす「艫取女(ともとりめ)」の2人は垂髪を元結(もとゆい)で束(つか)ねている。(遊女幻想 第1回、第2回より)
それにしても、最後の「男の愛祈る百大夫(ひゃくだゆう/ももだゆう)」には、切なくもおおらかなエロスが感じられ、ぐっと来るものがある。百大夫あるいは百太夫とは、人形遣いをはじめとする傀儡子や遊女たちが信仰していた民間神のことで、道祖神の中の一神といわれ、起源は縄文時代のシャーマニズムと弥生時代に大陸から伝来したシャーマニズムの二系統があるようだが、陽物つまりペニスを神体として象っていた。大江匡房の『遊女記』によれば、それは馴染みの男ごとに刻まれて祭られたものらしく、一人で百・千体にも及んだともいう。
「男の愛」という句について、西郷信綱は次のように述べている。
「男の愛」といういいかたには新鮮味がある。このような句を歌で用いたのは、日本の詩の歴史で恐らくこれが最初である。…この「男の愛」は寵愛とか性愛とかを意味する。ただ当時は、「親の愛」に代表されるように、愛はおもに上から下に対していい、目下や物件についていう場合が多いから、男の方から「女の愛」とはいわなかったと推測される。愛は男の女にたいするものであり、そして遊女らはそういう「男の愛」を夜ごと百大夫に祈ったのだ。(『梁塵秘抄』ちくま学芸文庫、34頁〜35頁、asin:4480088814)
かつても今も、男の愛と女の愛はすれ違う。男が求める「女の愛」は「母の愛」であったりするので、それが理解できない、理解したくない女たちは、虚実皮膜の芸のような演技を強いられたりもし、時にはあらぬ方向に恋の矛先を向けたりする。
ところで、そもそも遊女とはいかなる存在か。沖浦和光はかなり熱く次のように語っている。
遊女たちは歌舞音曲の道に勤しみ、ウタウ・カタル・マウ・オドル・トナエル・クルウなどの芸を能くしたが、これらはいずれもシャーマンの呪能に通じる業であった。
これらの一連の所作によってさまざまの芸能が成り立つのであるが、その始源にあったのは「ウタウ」であった。自分たちの願いを神に祈る所作は、まずその思いを「声」に出すところから始まる。それに韻律が伴っていくと「歌」になる。また神が人に乗り移って語る神語りも、それに抑揚を付ければ節を伴った「語り物」になる。
(中略)
マウ・オドルなどの身体所作は、歌に次いで起こるもので、世阿弥も「舞いは、音声より出でずば感あるべからず」とズバリ言っている。その点では、遊女は何よりもまず「歌姫」として登場し、「美しい声の力によって、歌の巫女として聖なる存在そのものに飛翔」するという佐伯順子の指摘は的を射ている。(佐伯順子『遊女の文化史』中公新書、1987年、asin:4121008537)沖浦和光『「悪所」の民俗誌』文春新書、2006年、104頁、asin:416660497X
現代の歌姫たちは遊女の系譜に連なる。
(つづく)