- 作者: 石田千
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2009/10
- メディア: 単行本
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石田千さんの上野の「平日」を綴った文章を読んで、ある年の三月末に上野の不忍池のほとりを歩いたときのことを思い出していた。枯れた蓮の茎に区切られた池の黒い滑らかな水に目を吸い寄せられた。水面は鏡になってビル街を映していた。鴨が数羽浮んでいた。
引用文中「はちす」は「はす」の別名である。
枯れた蓮(はす)の茎にからまるように、鴨の群れが浮いている。西日につつまれた不忍池(しのばずのいけ)に、ゆりかもめが飛びかう。
野放しの鳥と、金網のなかの鳥のあいだの白い門は閉ざされ、鍵がかけられた。
それにしてもあの女、あんなに親しげだったのに、どうしてきゅうに逃げたのかしら。
またせきこむ。くろいなめらかな水を鴨がすべり、あちこちに浮いていたはちすが、水ぎわに集まってくる。穴を天にむけたもの、つっぷしているもの、数えきれぬほどの集まりになっておし寄せてきた。朽ちたはちすが動いたところには、とろけた水が光る。まるく、鏡のように残されている。
死体の身元をたずねる看板のとなりに立ち、水を見る。ひとは、いつまでも沈んでも、水にまじらなかった。蓮に見つけられ浮んだこのひとは、だれでしょう。冬のやわらかな腐臭には、たくさんの息がまざっている。
気づくと、みなもに、毛糸の帽子をかぶった老人がうつる。
このおじいさんは、さっき駅にいた。ずっとついてきていたのだった。ふりむけない。悟られぬよう、肩からうえを動かさずにうかがう。老人は、町じゅうに散らばった沈黙を数珠でつなぎ、すぐうしろに立っている。
……冬の蓮がさびしがっている。まざってしまえ。
背をおされ、つき落とされてしまうまえに、駆けなくてはいけない。背なかで用意をしかけたとき、目のはしが気づき、また池をのぞく。
息をのんだのも、同時だった。どうして、このおじいさんしか映っていないのか。
どこかに、長年持ち歩いた指や声や顔かたちを落とした。駅にいけば、届いているかもしれない。
かさついた唇に指をあてるのは、悪い夢を見たあとの、いつもの癖だった。
ひび割れた太いひとさし指には、すでにタバコのにおいがしみている。
ふたたびくろい水鏡をのぞく。みなもの老人が揺らぐ。
おなじしぐさをしている。
現実とは薄く剥がれるように覚めつづける夢、そんな夢の重なりにすぎないとすれば、生きることは夢の薄い膜の間をうつりつづけることだと言えるかもしれない。ある夢の中の水鏡が私の不在をうつす。うつりつづける者は鏡にはうつらない。しかし言葉の「水鏡」には「私」がうつるような気がする。