旅芸人のフォークロア―門付芸「春駒」に日本文化の体系を読みとる (人間選書)
群馬県利根郡川場村門前に「春駒」が残っている。「村の青年団が中心になってこの春駒を伝承し、自分たちで百十一戸ある村のすべての家を門付して回っている」(7頁)という。しかもそこには興味深い前史がある。そもそも旅芸人による正月の門付芸であった春駒を大正時代の中頃に門前の農民たちが自らの手で行うようになったというのである。
門前をふくめてこの地域一帯は、正月になると旅芸人による門付芸の春駒がやってきて、農作物の豊穣や家族の平穏を祈って回った。春駒はまた、養蚕の予祝芸と考えられていて、養蚕農家が多いこの地域では、とくに正月の春駒を歓迎した。ところがある年になって、春駒を舞う旅芸人がこなかった。そしてその年、門前の養蚕が全滅した。
村人はあれこれ考え、春駒がこなかったせいではないか、と話し合った。だからつぎの年は必ずきてもらおうと、門付にきていた旅芸人をさがしにいった。
やっと旅芸人をさがしあてたのであるが、彼は重病で動けなくなっていた。そこで、門前の青年たちは旅芸人がいる「芸人宿」に通って春駒を教えてもらい、自分たちの村で、養蚕の予祝として春駒を舞うことになった。(川元祥一『旅芸人のフォークロア』8頁〜9頁)
それにしても、春駒を「なぜ門前の青年たちが、つまり農民が自分たちの手でやるようになったのか」(8頁)。そこに働いている「農民の深層心理」を様々な観点から探りながら、本書において川元祥一氏は、神の観念にもとづく口承文化の一環としての伝統芸能すべては自然の周期に依存した労働の過程の「反復」(206頁)をそれらの基本的な構造として持つことに着目し、その反復の深い意味を「心理的な原郷」(210頁)に見てとり、最終的に差別問題の克服を視野に入れた「アニミズムの再生」を唱えている。最後の論点と主張については別の機会に述べることにして、ここでは川元氏が示唆する考え、すなわち、口頭で伝承される唄や舞に顕著に見られる「反復」という特徴は「原郷」を記憶するための方法であったという考えに注目しておきたい。
本書『旅芸人のフォークロア』は1998年発行、川元氏が川場村門前を訪ねて伝承されている春駒を実際に見聞したのは、1993年1月18日、17年前のことである。春駒の伝承は今も続いているのだろうか。そう思って色々と調べていたら、昨年の「春駒祭」を記録したビデオがYouTubeにアップされていた。門前の春駒のパフォーマンスを見ることができた。特にその唄のリズムと旋律を実際に聴くことができて興味深かった。不思議なことに、ともすれば古臭さしか感じられない単調なリズムと旋律の反復が、そうしなければ、しつこく反復しなければ、忘れられ去られてしまう「原郷」の微かな手触りのような感覚を私の中に生んでいた。
川場春駒
歌われている春駒唄の歌詞はこうである。
春駒の唄
(前略)
サアサアのりこめはねこめ蚕飼の三吉
のったらはなすなしっかとかいこめ
(本唱)
春の始めの春駒なんぞ
夢に見てさえ良いとや申す
申してうつつは良女が駒よ
年もよし世もよし蚕飼もあたる
蚕飼にとりては美濃の国の
桑名の郡や小野山里で
とれたる種子はさてよい種子よ
結城蚕だねか茨城だねか
たやで豊原筑前こだね
みとこのたねを寄せ集め
かゆめ女郎衆にお渡し申す
かゆめ女郎衆は受け喜んで
はかまはくなるあつはたなんぞ
手にかえきりりとしたためこんで
左のたもとに三日三夜
右のたもとに三日三夜
両方合わせて六日六夜
六日六夜のその間にて
暖め申せばぬくとめ申す
三日に見初めて四日に青む
五日にさらりとおいでの蚕は
おいでがよければはくべき種子は
これより南は吉祥天の
大日如来のお山がござる
お山のふもとにお池がござる
お池の中の弁財天の
ひともとすすきふたもとすすき
三本すすきに住んだる鳥は
鴨の雄鳥大とや申す
キジの雌鳥小とや申す
大と小との風きり羽よ
ふた羽はけば三なる羽よ
ひと羽はけば一千万蚕
ふた羽はけば二千万蚕
三羽四羽とはきましょならば
紙にもあまれば籠にもあまる
あまり候やひろまり候
さらばこの蚕なにがな進上
桑のめぐみが良いとや申す
これより南は八反畑
八反畑はみな桑原よ
このや娘に足駄をはかせ
しまの前掛け紅染めだすき
髪も島田にこりゃんとゆうて
七九目竹のござるをさげて
桑の若葉をお手柔らかに
しんなとたゆめてさらりとこいて
ひとこきこいては小ざるに入れる
ふたこきこいてはお宿にかえる
お宿へ帰れば手でおしもんで
あの蚕にちらりこの蚕にぱらり
ちらりぱらりと進ぜてまわる
あの蚕この蚕は桑めすような
物によくよくたとえて見れば
昔源氏の馬屋に住みし
名馬の馬を牧場に上げる
朝日に向いては元そよそよと
夕日に向いてはうらそよそよと
食気に似たり葉音に似たり
さらばこの蚕や休みにかかる
しじの休みはしんじつ蚕
竹に起きてはたかごにまさる
船の休みはふんだん蚕
庭に起きてはにわかに育つ
四度のおきふしなんくせのうて
まぶし*1がやとて七十五駄
まぶしも小高く織りあげこんで
まぶしに上がりし作りし繭は
利根の河原や片品川の
瀬に住む小石にさもよく似たり
堅さも堅いし重さもおもし
はかりてみよとはかりてみれば
糸繭千石に織り繭千石
種まゆ共に三千石よ
上州の国では糸ひき上手
尾張の国では繭むき上手
上手上手が寄り集まりて
三日三晩に繭むきあげて
六日六晩に糸くりあげて
七日七晩に錦かけ上げる
機織り上手にお渡し申す
昔たまゆの中将姫は
綾が上手で錦が上手
雲に架け橋霞に千鳥
梅にうぐいす織り込むときは
一反織りたる元三尺を
伊勢の天照大神さまへ
おみすにかけてうら三尺を
ところ神社のおいなり様へ
おみすに上がりし残りし絹は
坂東つづらにしたためこんで
荷物につもれば七十五駄
ところではやるが大八車
大八車にゆらりとつんで
京へやろうか大阪やろうか
大阪本町ほてやが店で
荷物渡して金うけとれば
大判千両に小判が千両
白金共に三千両
大八車にゆらりとつんで
綾のたづなに錦のたづな
七福神のおてうちかけて
これを館に引き込む時は
いぬいの方に銭蔵七つ
たつみの方に金蔵七つ
合わせて十四の蔵立て並べ
綾の長者に錦の長者
お蚕繁盛をお祝い申す(川場村門前 春駒保存会 平成5年2月)
川元祥一『旅芸人のフォークロア』24頁〜27頁
*1:まぶし(蔟)。蚕が繭をつくるとき,糸をかけやすいようにした仕掛けのこと。