郷愁の奧にしか未来はないと語ったのは誰だったか?
『サーカスがやってくる』(1982年)は今はもう存在しない古いサーカスの舞台裏を文章と写真で活写した優れたドキュメンタリーである。本橋成一さんが撮影した情感豊かなモノクロームの写真が百六枚(!)も収められているので、独立したサーカス写真集として見ることもできる。西田敬一さんの文章は、1970年代後半に関根サーカスで一年半ほど働いた経験に裏打ちされた説得力に富むものである。『果てしなきサーカスの旅』(2009年)には、1990年代末に群馬県の旧勢多郡東村(現みどり市東町)にサーカス村(サーカス資料館とサーカス学校がある)を作りあげた西田敬一さんの数十年にわたる活動が生き生きと綴られている。なお、西田敬一さんのごく最近の活動を以下の公式サイトとインタビュー記事で窺い知ることができる。
ところで、木下サーカス、ポップサーカスと並んで日本三大サーカス団の一つに数えられていた札幌拠点のキグレサーカスが多額の負債を抱え、2010年の秋に倒産したことは記憶に新しい。当時の記事「キグレサーカスが事業停止に/娯楽多様化に対応できなかった」(J-CASTニュース、2010/10/23)に西田敬一さんの言葉が引用されている。
NPO法人国際サーカス村協会代表の西田敬一さんによると、日本でのサーカスの最盛期は昭和30年代。当時は全国に30以上のサーカス団があったが、テレビの普及や、サーカス興業が行われることの多かった祭りが衰退したことで徐々に減少。1990年代にはもう三大サーカスしかなくなってしまい、「日本三大というよりも、日本に三つしかないという感じ」だという。
しかし、サーカス業界全体がダメということではない。木下大サーカスや、ポップサーカスは成績もいいという。西田さんは指摘する。
「昔はサーカスも絶対的な人気があって、『サーカスが来た』というだけで子ども達が騒いだけど、今そんなことはありません」
娯楽が多様化した現代では、半年、一年後の興業できちんと目標を立てて動員を稼ぐには、公演前にテレビCMやポスターなどでいかに宣伝したり、生協などでどれだけチケットを販売したりするか、といった営業活動が重要。他のサーカス団に比べ、キグレはそうした点に問題があったのではないか、という。
また、カナダ発のサーカス団「シルク・ドゥ・ソレイユ」も現在日本で大人気だ。シルク・ドゥ・ソレイユは、アーティストの芸だけでなく音楽や照明、衣装なども凝っており、「現代的なサーカス」と言われている。他の国内サーカス団も団員に白人アーティストを入れたり、動物を使うなど工夫して特色を出したりしている。
「サーカスもショービジネス。キグレが時代に対応できなかったということでしょう。とても残念です」
なるほど、と思っていた矢先に、JAFから札幌に木下大サーカスがやってくるという情報が掲載されたチラシが届いた。
時代に対応できた木下大サーカスが、時代に対応できなかったキグレサーカス無き後の札幌にやってくる。
時代の流れに無頓着な私にとってサーカスのイメージは『サーカスがやってくる』で活写された古(いにしえ)の郷愁に彩られたサーカスのイメージである。直接体験に由来するイメージはほとんどない。子供の頃に見たキグレ・オートバイ・サーカスの断片的な映像が朧げに浮かぶ程度である。大半は、フェリーニの映画やシャガールの絵や中原中也の詩などから得たサーカスのイメージである。
西田敬一さんが『サーカスがやってくる』の中で、サーカスの根源的なイメージを自問しつづけ、ひとつの答えに到達したくだりが印象深い。
ある日忽然と出現し、ある日忽然と消える大テントのサーカス。それは外から見たイメージ、というだけでなく、大テントのサーカスそのもののなかに、核となって存在しているイメージに他ならない。その核は空間を豊穣に満たした後に、何もないゼロの空間を再現する力である。(231頁)
そんな移動と仮設を常とするサーカスにはいつも郷愁の音楽が寄り添っていた。『サーカスがやってくる』では「ジンタの演奏する哀愁に満ちた調べ」(26頁)、「先ほどから楽隊は『天然の美』を奏でている」(140頁)として触れられている。
ジンタとは、
明治の初期に軍楽隊の音楽として日本に入ってきた西洋音楽が、明治の中頃に民間の楽団によって、宣伝広告やサーカス、映画の余興として演奏される中で、大衆化された音楽スタイル。その流れはのちの「ちんどん」へと連なる。行進曲などの「ジンタッタ、ジンタッタ」という独特のリズムが、語源だといわれる。
沖縄大百科より
『美しき天然』とも呼ばれる『天然の美』に関しては、かつて姜信子さんが『追放の高麗人』(asin:4883440842)の中で、その歌の歴史を掘り起こしたことが知られている。佐世保で生まれたその歌は、朝鮮半島、ソ連極東、中央アジアと、海峡を越え、国境を越え、大陸を横断した高麗人の追放と流浪の語られざる歴史=記憶を包み込むようにして彼らの日々の暮らしに寄り添った歌だった。
札幌にやってくる「現代的な」木下大サーカスはどんな音楽とともにどんな記憶を運んできてくれるだろうか。