いうまでもなく、検索とは想起のことである

中山さんのところ(『横浜逍遥亭』)で、美崎薫さんが大変興味深い自説を展開している。
Google美崎薫さんがやっていることを理解するためにも非常に貴重だと私が思うポイントに絞って、美崎さんの議論を少し整理し、今後に役立てたい。

いうまでもなく、人間の記憶の想起に相当するのが記録の検索である。
そして検索の「スマートさ」、「かしこさ」が今一番試されているのは画像検索という検索技術戦争の一前線である。そこにおいて、美崎薫さんのSmartCalendarはGoogleに先んじている。しかしGoogleも流石であって、

Picasaは、2.5でSmartCalendarとおなじタグの保存方式に切り替えてきました。う〜ん、流石Google。やるじゃん。そこに気づいたのはなかなかいい。そう方向転換するのなら、仕様は公開しているんだから、GoogleがSmartCalendar作ってくれたらいいのに。

いうまでもなく、画像が検索できるようにするためには、かなり融通のきくひっかかりのようなキーワード、つまり「タグ」をつけなければならない。

検索にはタグが必要。でも現実に世界にはタグはない。(中略)
いまなにをスマートにすべきかといえば、タグをつける作業をスマートに行える必要がある。

PicasaFlickrなどの画像共有サービスに関して私も誤解していた点について、美崎さんは次のように言い切る。

あるものにどういうタグをつけるのか。ユーザーが勝手につければいい、なんていうのは、へそで茶が沸くような絵空事で、それでは検索もできないし、役にも立たない。

確かにそうである。そして、

タグが使用に耐えるように、司書的な存在が不可欠であろう。

しかし、だれがそんな"宇宙的な"「司書」の仕事をかってでるだろうか?

だれかが(汗水垂らして/アヒルが優雅に泳いでいるように見えて必死に水中出水か記しているように)、タグをつけるしかない。

(一息つく)

それで、実際にタグをつける作業の内容、どういうタグが望ましいのかというと、

そういう(表記がばらばらなタグの)事例を拾ってシソーラスを作る以外には、知性をかたちにしていく方法がない。

じゃあシソーラスはあるのか??

あるわけがない。
(ちなみに、美崎さんのいう「シソーラス」とはタグ同士の意味関係を効果的に記述したリストというか、辞書みたいなものだと思う。一般には類義語辞典を指す。私が仲間と取り組んできた「たまごプロジェクト」における六カ国語の語彙と文法の「中間言語設計」なる一種の「タグ付け」においても、ロジェから始まるシソーラス辞典、日本語だけでも各種ある類義語辞典やデータベースの「タグづけ」はあまり役に立たなかったので、結局自分たちで「世界」把握にひつようなカテゴリーや操作としての「タグ」を作るしかなかった。まだ未完成ですが。)

作るしかないんじゃないだろうか。
と思うわけです。

そしてそのためにも何度でも強調すべきことは、「司書」の仕事であり、

シソーラスを作るための第一段階として、タグが必要で、タグじたいは勝手に入れればいいんだけど、そのあとでそれをオーバービューして、編集する作業が必要。そういうところを抜きにして、Googleはスマートだというのは、ぜんぜん、箸にも棒にもかからないです。

「編集する作業」すなわち「司書」の仕事のベースは「世界認識」というか、美崎さんの言葉では「知性」であり、それはもうやはり「個人」の作業、仕事になるのではないか。もちろん、だからといって、主観的だというわけでは必ずしもなく、美崎さんが探究しているのは、個人が本当に必要としている普遍的な知的ツールの仕様なのだと思う。

最後に、次の美崎さん自身の現状認識のアンビバレンツな言葉は非常に意味深長だと私は感じる。

中山さんのいい方でいえば、わたしはいつまでも夢想家でいてはだめなのかもしれず、ちゃんとビジネスにしなくてはSmartCalendarはうまくいかないのかもしれないのです。あるいはそれはぜんぜん逆で、SmartCalendarは、もっと思想性を高めるべきものなのかもしれない。どちらなのかはよくわかってない…。
気づいたのは、思想性を高めると、わたし以外に使えるユーザーがいなくなりそうということです。それはちょっと避けたいというか、いちおうだれでも使えると、オープンにしているのですが…。sigh…。←いま・ここ。

本当は「思想性を高める」ことこそが最も重要であり、個人が本当に必要としているものも己の思想性を高めること、つまり自らが真にスマート、賢くなることだと思う。「ユーザ」という見方を抵抗なく使う思想性、ビジネス観の低さ、愚かさを軽々と飛び越えるような思想性、ビジネス観の高さ、スマートさを、私は初めてSmartCalendarを使ったときから、そして渋谷のカフェで美崎さんにSmartWriteの使い方を教えてもらったときから、強く感じていた。

しかもです。これは強調して強調しすぎることはないと確信しているのですが、思想性の高いSmartWriteは、思想性の低い普及しているどんなデジタルツールよりも断然、使い勝手が良いのです。SmartCalendarはいうまでもありません。rairakku6さんのチャレンジの様子からもそれは窺えると思います。

カメラは記憶を想起させる


今朝の散歩では、迂闊なことに、デジタルカメラの充電をし忘れていて、四回シャッターを切ったところでバッテリーが切れた。こういうときにけっこう記録しておきたいものが目に留まる。数日前からの雨と風のせいで、木々の葉がかなり落ちた。幹と枝が露になって、濡れそぼった木々の姿は凛として美しい。中にはまだまだ真っ赤な葉を沢山つけた楓があるし、可憐な花をつけているものもある。植物たちの「時の形」は本当に千差万別だ。いくら見ていても飽きない。人間の世界もそうであってほしいと不図思う。父親が晩年風景写真を撮り続けた気持ちも少しずつ分かってきたような気がする。

ここ数日私に起っている顕著な変化は、カメラを持つようになって、シャッターを切る前後に、無意識のうちに、話しだしているということである。傍からみれば、たんなる独り言にしか見えないかもしれない。しかし普通の独り言とはどこか異質なのだ。かなりはっきりと誰かに向かって、誰かと話をしているという感覚を抱きながら、小声で「これ、いいねえ。すごいなあ。ちょっとなあ。」といった短い言葉から、かなり長い言葉まで、ほとんど意志的ではなく、会話している。それにはっと気がついてびっくりする。そういうときには、しばし立ち止まっていることが多いので、連れの風太郎は怪訝そうに私を見上げて、早く行こうと催促するかのように、リードを引っ張る。

考えてみれば、独り言は自分との対話、もう一人の私との対話であると言えるから、そのもう一人の私が、過去の私であったり、もしかしたら、記憶の中の他人、例えば死んだ父親だったりするのだろう。そう考えれば、カメラは、記録ツールである以上に、記憶想起ツールであり、極端な場合には死者との対話を惹起するツールでもあるのかな、などと考えはじめている。それもカメラの醍醐味、効用の一つなのかもしれない。面白い。

知ることの意味は何?

昨日講義を終えて研究室に戻り講義記録を書いていたら、ひとりの学生が訪ねてきた。相談があるという。一言では言えないその膨大な内容をその学生は言葉を選び選び慎重に慎重に言葉にした。「知ることにどんな意味があるのでしょうか」、「知らないほうが幸せではないのでしょうか」。「おー、来た、来た」と思って、私は嬉しかった。

問うことは難しい。上手に問うことができるようになれば、答えを手に入れたも同然である。抽象的な問いかけは少しずつ少しずつ具体的な問いかけに翻訳していくのがいい。そうすれば自ずと自分が本当に問いたいことが見えて来る。

学生と対話しながら、私はかつての私、もう完全に赤の他人のような若い頃の自分を思い出していた。

大学1年のときだった。私は「科学史」の講義をとっていた。教えていたのは岡不二太郎先生で、数学者の岡潔の弟さんだった。私は高校時代受験勉強の合間に岡潔の随筆をよく読んでいて、数学者に憧れたこともあった。あの岡潔の弟か、という関心からその講義をとることに決めたような気がする。記憶は曖昧だ。

岡不二太郎先生はその講義の中でけっこう哲学的なことを語っていたのだろう。講義内容はほとんど思い出せないのだが、ある日、講義が終わった後、私は退室する岡先生を追いかけて、声をかけ、唐突にも「人はなぜ生きるのでしょうか?」と哲学的な質問をしたことを鮮明に覚えているからである。こんな質問を向けるに足る先生だということを、講義から感じていたからに違いない。一瞬驚いた表情を見せた岡先生はその問いに即答せずに、「ちょっといらっしゃい」と私を研究室に招いてくれた。私が自殺でも考えていると思ったのかもしれない。

どんな研究室だったか全く思い出せない。どんな椅子に腰掛けたのかも覚えていない。岡先生が「君の質問は頭と尻尾を取り違えている」と言ったことだけは鮮明に覚えている。そしておそらく岡先生はその比喩をあれこれ敷衍してくださったに違いない。私はその場では先生の回答が飲み込めなかったが、しかし私にきちんと向き合ってつき合ってくださった岡先生に心底感謝した。後は自分で考えるしかないと思ったはずだ。

その後、盲滅法、手当り次第に色々と学んだり、考えたりして、(もちろん、ウィトゲンシュタインなんかも読んだりして)、「人はなぜ生きるのか?」という問いは私の中では解決ならぬ解消した。生きていることが大前提で、「なぜ」という問いかけはその後から来る、という意味での本末転倒を岡先生は言いたかったのだということが分かった。ただし、なぜ、そのような「なぜ」という疑問の形が生じるのかはもっとずっとあとになるまではっきりとは分からなかった。そして「生きる」、「世界」、「言語」という全体に対して「なぜ」という理由あるいは意味を問うこと自体が無意味であるという考えも学んだ。さらにそういう本末転倒が起るのには、必ずもっと具体的な小さな疑問が自分の中に控えているからだということも知った。

しかし往々にして人は、私自身も、そういう本末転倒で悩み、行き詰まり、袋小路に陥ることも知った。だから、そういうときには自分にとってはものすごく現実的な問題で、真剣に悩んでいると思い込んでいる問題の、実は抽象性、岡先生の言った「頭と尻尾の取り違え」を見抜き、それを具体的な問題へと解きほぐしていくことが、窮地からの脱出法であることを私は様々な局面で確認するようにもなった。

そんなことを思い出しながら、かつての大学1年生だったときの自分に答えでもするかのようにして、私はその学生に答えられるかぎりのことを答えた。学生は肩の荷が少し下りたような清々しい表情になって、丁寧にお礼を言って、帰って行った。

***

もちろん、はなから具体的な問題で悩むこともある。しかしそういう問題の大半は高下駄のようなプライドを捨て、失うものは何もないと腹をくくって解消するしかない。残りはケースバイケース。私が日々接している大学生の悩みの多くは私が大学生だったころと同じで、基本的に抽象的であり、悩んでいる当の「私」の具体的な足場に目が行っていないことが多い。灯台下暗し。時に私はちょっと過激に「悩み方を間違っている」とか「間違った悩み方をしている」とか「正しく悩め」とか言ったりもするのだが、そう言われた学生はハッと何かに気付いたような表情を見せることが多い。

翻って、根っから組織的ではない私が組織の一員であるが故に直面する悩ましい問題は、答え(目的地)ははっきりしているのに、そこへ至る具体的な過程、手順が途方もなく複雑で困難が伴うような問題である。途方もなく複雑で困難なのは、そこに多くの他人の人生がかかっていると思うからだ。このような問題の解決のヒントは、やはり「人生がかかっている」という抽象性を解きほぐすことにあるのだと見当はついている。そしてそのためには関係するすべての人と対話を重ね、具体的な同意点、一致点を見出さねばならない。しかしそれは私の場合には怠惰なせいもあり、実際には完遂不可能で、従って問題の解決は不可能に近い。

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ところで、「知ることにどんな意味があるのか」に対する直接的な答えは「それを知るために、具体的なことをたくさん知っていくんだよ」である。禅問答みたいだが、真実である。もっとカジュアルに乱暴に言えば、「色んな意味があるに決まってるじゃない」である。正確には、そのような問い方自体が無意味であって、実は知ること自体が意味に満ち満ちているのだよ、ということでした。
だから、知らなければよかったなんて思うとしたら、それはまだよく知っていない証拠で、もっと知れば、きっと知ってよかったと思うはずだ。そもそも知ることは楽しいはずなんだよ。どこかで知ることを停止することが、暴力を生むんだ。知ることを楽しみ続けることが「哲学」の原義でもあって、そこから色んな諸科学も生まれたんだよ。詩と哲学の関係はちょっと複雑で、ロング・ストーリーになるから省くけどね。La Gaya Scienza(楽しい知識)って言うじゃない。楽しいと思えるまで、具体的にどんどん知ること。そしてもし、知ることは究極的には本当はつまらないということを知るにいたったら、それはそれで凄い境地かもしれないよ。俺には無理そうだけどね。

もしかしたら、人間の知るという作業の目的は人間には知ることができないことがあることを知ることなのかもしれないんだから。結局は、例えばクジラになるしかない、とかね。最近は実は美崎薫さんて人に会って、そんなことも考えはじめているんだけど。それはもう少し先の話ね。

本は風を起こす機械である

私が後悔していることの一つは、一昨年アメリカに発つ前に、大量の蔵書を手放してしまったことである。残ったのは各種の辞書、辞典と洋書だけだった。もちろん、スキャンもしなかった。その時美崎薫さんの研究を知っていれば、そんなことはしなかったかもしれない。何の記録も残さずに、なぜか、本の記憶をすべて消そう、忘れ去ろうするかのようにして、私は無謀なことをしたのだった。

図書館の本を借りればいい、身軽になりたい、と思っていたのは確かだが、それだけではなかったような気がしている。帰国してから、やはりどうしても手元に置いておきたい本をぽつりぽつりと買うようになって、その殆どが一旦は忘れようとして手放した本であることに驚くと同時に合点もいった。数千冊の中から「本」という形態で手元に残しておくべきものを選別するために、鈍い私はそれらをすべて一旦は手放すという暴挙を経る必要があったのだとうことに気がついた。今なら、理想的には、美崎薫さんのように、すべてを電子化した上で、本として身近に置いておきたいものだけを残すということをするだろう。しかし当時の私は記録することは全く念頭になく、しかも無自覚な忘却主義者だった。

面白いことに、手放した本の内容は思い出せなくても、本の姿の記憶はかなり鮮明にあるので、もしどこかの古書店で、手放した本のどれか一冊にでも出会うことがあれば、見覚えがあるはずである。そしてそれを手に取れば、それにまつわる記憶が蘇るのは確かだと思う。嘘だー、と思われるかもしれないが、本との付き合いが長い人にはきっとよく分かる感覚だと思う。でも、もし本当にそうやって再会したら、私は合わす顔がないような気もする。妙な話かもしれないが、逆に、本というものは、それだけ深く記憶の「襞」のようなところに根を下ろす存在なのではないだろうか。

ところで、本に対していつも感じてきたことは、頁という考えてみればちょっと不思議な紙上、紙の両面の単位のことである。普通両者は混同されているようだが、紙と頁は次元の違う存在だと思う。というか紙は存在するが頁は存在しない。頁は本から紙の存在を消し、その表と裏の違いをなくす仕組みのように思える。それでも、前頁の印刷が透けて見えるようなとき、頁という単位の方が消えて紙という物質の裏側が意識される。普通は、一方では、それが紙から出来ていることを忘却し、本は頁という単位、層からなる非常に抽象的な機械か空間のように感じられる。そして他方では、手で捲(めく)られる紙が風を起こす機械のようなイメージも浮かぶ。捲られた紙が起こす微かな風は当然、匂いも運ぶだろう。本フェチで香水フェチの人なら、きっと本に香水を振りかけるだろう。