本は風を起こす機械である

私が後悔していることの一つは、一昨年アメリカに発つ前に、大量の蔵書を手放してしまったことである。残ったのは各種の辞書、辞典と洋書だけだった。もちろん、スキャンもしなかった。その時美崎薫さんの研究を知っていれば、そんなことはしなかったかもしれない。何の記録も残さずに、なぜか、本の記憶をすべて消そう、忘れ去ろうするかのようにして、私は無謀なことをしたのだった。

図書館の本を借りればいい、身軽になりたい、と思っていたのは確かだが、それだけではなかったような気がしている。帰国してから、やはりどうしても手元に置いておきたい本をぽつりぽつりと買うようになって、その殆どが一旦は忘れようとして手放した本であることに驚くと同時に合点もいった。数千冊の中から「本」という形態で手元に残しておくべきものを選別するために、鈍い私はそれらをすべて一旦は手放すという暴挙を経る必要があったのだとうことに気がついた。今なら、理想的には、美崎薫さんのように、すべてを電子化した上で、本として身近に置いておきたいものだけを残すということをするだろう。しかし当時の私は記録することは全く念頭になく、しかも無自覚な忘却主義者だった。

面白いことに、手放した本の内容は思い出せなくても、本の姿の記憶はかなり鮮明にあるので、もしどこかの古書店で、手放した本のどれか一冊にでも出会うことがあれば、見覚えがあるはずである。そしてそれを手に取れば、それにまつわる記憶が蘇るのは確かだと思う。嘘だー、と思われるかもしれないが、本との付き合いが長い人にはきっとよく分かる感覚だと思う。でも、もし本当にそうやって再会したら、私は合わす顔がないような気もする。妙な話かもしれないが、逆に、本というものは、それだけ深く記憶の「襞」のようなところに根を下ろす存在なのではないだろうか。

ところで、本に対していつも感じてきたことは、頁という考えてみればちょっと不思議な紙上、紙の両面の単位のことである。普通両者は混同されているようだが、紙と頁は次元の違う存在だと思う。というか紙は存在するが頁は存在しない。頁は本から紙の存在を消し、その表と裏の違いをなくす仕組みのように思える。それでも、前頁の印刷が透けて見えるようなとき、頁という単位の方が消えて紙という物質の裏側が意識される。普通は、一方では、それが紙から出来ていることを忘却し、本は頁という単位、層からなる非常に抽象的な機械か空間のように感じられる。そして他方では、手で捲(めく)られる紙が風を起こす機械のようなイメージも浮かぶ。捲られた紙が起こす微かな風は当然、匂いも運ぶだろう。本フェチで香水フェチの人なら、きっと本に香水を振りかけるだろう。