イタリアとスイスの大学でコミュニケーション科学を専攻するMarco Fare君が、「えっ」というタイトルの記事を書いていた。
Paper: a taxonomy for tagging system
http://www.fridaynet.ch/index.php/2006/12/17/paper-a-taxonomy-for-tagging-system/
彼は、この報告 http://www.rawsugar.com/www2006/29.pdfを褒めていたのだった。それは、現存するウェブ上のタグ付け・システムを旧来の分類(タクソノミー)によって理解しようとする内容である。つまり、フォークソノミーそのものではなく、フォークソノミーをタグ付けシステムとして設計・実装する際の発想をタクソノミーで押さえ込もうというわけだ。興味と物足りなさを同時に感じた。
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『論理哲学論考』を書いたときのウィトゲンシュタインは分類(Taxonomy)やカテゴリー(Categories)という発想を否定した哲学者だった。
6.44 神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。
と若かりし頃のウィトゲンシュタインは書いた。たしかに、比較するなら、世界がどうあるかよりも、世界があること自体のほうが断然不思議と言えば不思議だ。けれど私は毎朝「世界がいかにあるか」に驚いている。ああでもあり、こうでもある世界を新鮮に感じている。
哲学的には、たしかに、世界があるというそのこと、「ある」というそのことを問題にするのが「存在論(Ontology)」だ。どんな領域にどんな対象がどのように存在するかは存在論の名に値しない。それに、そもそも同じ名前で指示する対象そのものが同じであるとは言い切れない。指示の不確定性。
だから、若きウィトゲンシュタインは、世界は事実から成り、事実は対象の結びつきから成る、と考えたけれど、世界にどんな対象が存在するかを、対象のリスト、あるいは分類やカテゴリーとして示すことはしなかった。要するに、人が存在すると認めたものが存在する。そのリストは人それぞれ。たとえ、同じ名前が使われていたとしても、その名前で指示される対象が同じであることを確かめることはできない。
しかしながら、若きウィトゲンシュタインは、よもや何億もの人々が瞬時に繋がり合い、世界に存在する対象のリストを報告しあうような時代、そしてその数の多さ、膨大さが、世界に存在する対象のリスト、分類やカテゴリーについて語ることが無意味ではなくなるような時代がくるとは想像もしていなかったにちがいない。
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フォークソノミー(Folksonomy)に関する議論では、「同一の」情報に大勢の素人が好き勝手に「違う」タグを付ける「が故に/にもかかわらず」という展開をよく目にするが、そもそも何をもって「同一」とするかは永遠に不確定であることに変わりはない。だから、例えば、Flickrで見た一枚の写真に100人の人全員が違うタグを付けたとして、それは「同じ」写真に100個の「違う」名前が付けれたと普通は考えられているが、存在論的には、認識論的にも、本当のところは、100枚の違う写真が存在するのである。それを「同一の」写真とみなすのは、本当はわれわれにはとりえない「神の視点」、あるいはコンピュータの視点である。死んだ、あるいは中立的なデータとしては「同じ」かもしれない。しかし、この世界で生きている我々は神でもコンピュータでもない。
ということは、フォークソノミーを巡る議論で本当に「問題」なのは、本来フォークソノミー的な人間の世界認識に関わる存在論と本来タクソノミー的、カテゴリー的なコンピュータ計算との間のギャップなのだろうと思う。
晩年のウィトゲンシュタイン、『哲学探究』のウィトゲンシュタインは、正に「タグクラウド」を連想させるような意味や対象の同一性の発想にとらわれない「家族的類似性」というビジョンや、次々とルールが創発するゲームのようなファジーな言語観を抱いていた。フォークソノミーに関する議論は後期ウィトゲンシュタインの思想に照らしてみると面白そうだと感じている。
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でも、Marco Fare君の記事によって、技術的には、タクソノミー/フォークソノミーという二元論ではなく、タクソノミー/システム/フォークソノミーという三元論の発想が必要なんだということを知った。