人生を剥ルLife goes on! Keep dancing!:365Films by Jonas Mekas

ジョナス・メカスによる365日映画、59日目。


Day 59: Jonas Mekas

Wednesday February. 28th, 2007
4 min. 23 sec.

My pod team, we
celebrate the end
of February.
Life goes on!
Keep dancing!.

ポッド・チーム
みんなで2月の終わりを
祝う。
人生は続く!
ダンスも続く!

1月31日にも書いたように、このメカスの365日映画の企画はiPodで見られる映像配信ということがひとつの売りにもなっていて、ここではデジタル映像制作チームが「ポッド・チーム」と呼ばれている。チームの中心は、メカスの息子のセバスチャンとベン・ノースオーバー。過去の膨大なフッテージの中から、あるいは撮りたての映像から、毎回おそらくメカスのアイデアを核にすえた短編が生き生きとした人生の記録として制作される。アンソロジーの倉庫の編集・制作コーナーの机上には、マックが三台と、外付のハードディスク四機がフル稼働している。

1月31日もそうだったが、毎月最終日は、一ヶ月という区切りを祝うために、スタッフ皆で踊ることになっている、というか皆踊らずにはいられない、そんな周期的時間のリズムを大切にした人生をメカスたちは生きている。人生が続く限り、踊り続ける。ダンス(や音楽や酒)とは人生そのものを祝うことなのだと思う。翻って、この私は人生を祝うことを忘れ、軽く呪ってばかりいるような気がする。せめて今晩は今日の映画を大音響で流して、家族を巻き込んで、帽子を被って飲んで踊って人生を祝いたい。難しそうだな。

***

フト、昔読んだ異端カタリ(ー)派の「人生を剥(へず)る思想」を思い出した*1

ウェーバーによれば、キリスト教的贖罪意識が「労働」を義務化し、要するに「働かざるもの、食うべからず」という近代的な「道徳-経済」を生み出した。それに倣って言えば、贖罪意識を持たなかったカタリー派には「労働-経済」意識がなかったに違いないと考えられる。彼らの優先順位は何よりも「歌うこと」であり、すべては「歌うこと」に捧げられ消費される。なぜなら、この世界を「歌い-へずる」ように無為に消費することこそが「こことは他の場所」に至るための最善の身振りであって、勤勉や労働はむしろ「悪としての全世界」の存続を城塞のように守る悪しき身振りにしかなりえないからである。

カタリー派にとって生きることは「悪い」ことではない。なぜなら、生きることは「悪」である世界を楽しく「剥(へず)る」ことであって、したがって、生きることは、奇妙な逆説によって、断固、徹頭徹尾、「善きこと」だからである。ただ、問題なのは、「贖罪-勤勉」という「道徳」によって、「善きこと」と「贖罪」を混同する連中の存在である。カタリー派にとって生きることが「善きこと」なのはそれが「歌う」ことで「悪しき世界」を浪費することだからであって、「贖罪」の裏返しの「生き残る野心」や「生き甲斐」において、「善きもの」と言われる「生」など、「贖罪の刑期」を短くするために模範囚を演じる者たちの鬱陶しい、いじましさでしかないからである。

追記。
考えてみれば、一ヶ月周期と言わず、一週間ごとに、一日ごとに、毎食ごとに、……、一瞬ごとに、人生を、生きていることを各自が工夫と努力をこらして祝う、祝福するような生き方が、メカスが語らずに示す「善く生きる」の「善」の内容なのかもしれない。いわば、積分的人生観ではなく、微分的人生観。

*1:この引用は昔「論理学入門」という講義で使った資料で、金井美恵子著『彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』(朝日文庫)所収の丹生谷貴志による「解説」p.316-317。ただし「論理的な観点」から大幅に編集を加えてある。