celebrating "Day 200" of 365Films by Jonas Mekas

メカスの365日映画の伴走は昨日でちょうど切りのいい200日目を迎えた。数字的な百単位の区切りに、ちょっとした意味を見出してしまうのは私が染まってしまっている「文明の病」だろうか。メカスのサイドはあくまで月単位の区切り、「自然の周期」にしか祝うべき理由を見出さない。

色々と思うところがあるなかでつくづく感じていることは、メカスをはじめ映画に登場するアーティストたちのアーティストらしからぬ普通さと自由さである。だいたい肩書きがひとつではないし、実際にも、ジャンルに縛られることなく、実に様々な媒体や技術を良い意味でせっそうなく徹底的に活用していることが非常に印象的である。しかもそれが自分や自分と関係する家族や友人たちの生活を豊かにするといういささかのブレもない目的を見据えてなされている。日本で見られる傾向はその正反対で、アーティストたちはいかにもアーティストっぽくて、メディアや技術に縛られていて不自由な印象が強く、極端な場合には独り善がりの自滅的傾向の印象さえある。まるで会社に忠誠を尽くして働いたかつてのサラリーマンのように、ひとつのジャンルの表現形態に忠誠を尽くしているかように見えることもしばしばである。

ところで、ジャンルの自己解体の表現が「モダン」だったわけだし、その後(ポスト)はデュシャンにしても、ウォーホルにしても、自分がやっていること自体を疑う眼差しから決して自由にはなれないことを自覚することなく、表現することなど不可能であることを自覚した上で、確信犯的に何かを表現しているように見えて、実は何も表現するべきことなどはないのだということを示唆していたわけで、さらにその後の時代を生きるわれわれに残された道は、それがよもや表現やアートであるなどとは誰にも気づかれないような慎重さで何かをし続けることしかありえないのではないかと私は漠然と思っていた。生きていること自体が敢えてそう呼ばずともつねにすでに究極のアートであるということに気づくことが大切であると。

で、メカスが毎日配信するフィルムは、「映画の常識」からはほど遠く、これでもか、というくらい徹底的にプライベートな、でも何て言ったらいいか、決して湿っぽくなく、非常にドライでオープンでもあって、しかも文明的、社会的不正に対する厳しい批評精神に貫かれてもいて、権力に対する反骨精神にも満ちあふれていて、ところがそれでいて肩に力が入っていないというか、とても柔らかく自由なのである。それは、結局のところ、個人としての自分の立ち位置が明確に分かっているからだと思う。だから、日本人のように誰かを「先生」とは決して呼ばない。かならず「友」だ。古き良き友から新しい友まで。そして、「いいじゃない」、「好き」といった風通しのよいプラスの感情でつながった自由なネットワークが世界中に広がっている。これは素敵なことだと思う。