疲れたまなざしの無窮の時Guillaume Apollinaire

前エントリーを書くための下調べをしていて、二十年以上ぶりに、アポリネールの「ミラボー橋(Le pont Mirabeau, 1913)」を読んだ。学生時代に何度も読み、シャンソンになった歌も何度も聞いたはずなのに、なぜか初めて読んだ気がした。昔は何を読んでいたのだろうと思った。画家マリー・ローランサン(Marie Laurencin,1885-1956)との六年越しの愛が破局を迎えたときに作られたという、この詩にまつわる有名な逸話から想像されるものを、そこに読み取るような読み方をしていたような気がする。そして今の私はそのようなイメージからずいぶん離れた読み方をした。

オリジナルのフランス語は、例えば、ここでも見られるが、私が非常に気になったのは、なかほどの連の最後の行、

Des eternels regards l'onde si lasse

だった。定評のある堀口大學による日本語訳では、

疲れたまなざしの無窮の時

とある。

また、この部分の英訳の一例では

Eternal tired tidal eyes

とある。「永遠の疲れた潮(時)の目」とでも直訳できようか。

前エントリーの注にも挙げたアポリネール自身による朗読(YouTube - Guillaume Apollinaire voice)http://www.youtube.com/watch?v=eCpg6SMzXC4を聞いていると、アポリネールのたゆたうような声はミラボー橋の上から川面を凝視する眼差しを無視してセーヌ川が流れてゆくのを感じる。「流れる」こと、「過ぎゆく」ことが「永遠(無窮)」であることを見る「目」が「もう疲れた」と呟く、ということか。堀口大學は「疲れたまなざし」に「無窮の時」が映るのを実感していたのかと思った。

アポリネール=堀口は独り善がりの「観念」や「幻想」ではない、止めることのできない河の流れのような人生の上に奇蹟のように架かる橋としてのミラボー橋=愛、儚く過酷な「関係」としての愛を見据えていた、と言えるだろうか。アポリネールローランサンのことを思い続け、ローランサンが描いたこの絵が枕元に飾られた部屋で38歳で死んだことを初めて知った。