心の中の奥の細道

次の句がずっと心にある。

よく見れば薺(なずな)花さく垣根かな
芭蕉44歳、貞享四年、1687年、江戸深川の草庵にて)

この句は、伊藤洋さん運営の芭蕉DBによれば、

春の七草であるナズナ(ペンペン草, shepherd's purse)の花はめだたぬちっぽけな花である。だからよく見ないと目にはとまらない。垣根の陽だまりに可憐に咲いている。詩人の目は これをしっかり見ている。進境著しいこの時期を代表する佳作だが、「よく」見なければならないところに未熟さを残した作品でもある。中国の詩人程明道の「万物静観すれば皆自得す」がヒントになっている。

と解釈されている。

翻訳は一種の解釈でもあるから、この句の英訳はどうなっているかをちょっと調べてみた。"Basho, shepherd's purse"でウェブ検索してヒットした中で一番丁寧な訳だと思われたのは、愛媛大学付属図書館の句碑データベースの英語版にある次のような英訳例である。*1

Having a good look at
The hedge where I found shepherd's purse
Being open in a corner

意外なところでは、ロシアの作曲家スミルノフとフィルソヴァの共同サイトに、次のような三つのシンプルな英訳例とロシア語訳が一例載っていた。*2

Looking carefully, -
a shepherd’s purse is blooming
under the fence.
(R.H.Blyth)

Search carefully -
in the hedge,
a shepherd's purse.
(Lucien Stryk)

When I look carefully
I see the nazuna blooming
by the hedge!
(Guido Picelli)

Взгляни поближе -
кустик пастушьей сумки
под плетнём расцвёл.
(ДС)

また、ユーゴスラビアベオグラード大学のDushan Pajinさんは、2000年オックスフォードでの「世界俳句祭」の講演で次のようなやはりシンプルな英訳を挙げている*3

(When) closely inspected,
Nazuna in bloom
(Under) the hedge!

そして、この句のポイントは、

the glory in the flower

つまり「花の栄光」に気づくことだと解説している。

ついでに、面白いつながりとして、ビートニクの元祖ジャック・ケルアック経由で、"shepherd’s purse"(薺)をブログ名にするほど、芭蕉の「哲学」に心酔しているらしい俳人Dustin Nealさんは、自己プロフィールに、次のように書いている。

Dustin discovered haiku at the age of twenty after reading Jack Kerouac's "American Haikus." What you read on this site are Dustin's attempts to keep the spirit of haiku alive today. Dustin holds to Basho's philosophy, "When observed calmly, all things have their fulfillment."

ダスティンさんが信奉する芭蕉哲学の神髄は「心静かに見れば、万物はその十全たる姿を見せる」というわけである。上の芭蕉DBの解説で引用されている「中国の詩人程明道の『万物静観すれば皆自得す』」と同じ思想である。

しかしながら、そのような哲学や思想、そして以上の英訳も含めた解釈には、何かが欠けていると私は感じる。私にはそもそも芭蕉ほどの詩人が普通の意味で「よく、注意深く、心静かに」見なかったわけがないと思われるからである。「よく、注意深く、心静かに」見る目は、単に外界の垣根の目立たない薺(ナズナ)に気づいただけではなく、それと同時に、もっと大事なことは、むしろそれまで気づかせなかった己の内面の「垣根」にも気づいたはずである。そんな「折り返すような心の目」を強く感じる。そこに存在するものに気づかなくさせる心のハードルがたくさんある、という自己認識がこの一見未熟な句には何気なく非常に巧みに組み込まれているのではないかと思う。

誰にとっても普段見過ごしていたものにある時ハッと気づくことには、そのときまでそれに気づかなかった己の中の原因にも気づくことへと一歩、認識の歩を進めるキッカケ(契機)が含まれているはずで、芭蕉の「哲学」があるとすれば、それをおいてほかにはないような気がする。すくなくても、その程度には「深く」なければ、すなわち「自己批評性」がなければ、「哲学」と呼ぶには値しないのではないかと思う。

朝の散歩で辿る道を傲慢にも「奥の細道」だと心密かに思っている私にとって、私がちょっと調べた限りでの感想にすぎないが、「よく見る」に秘められた芭蕉の「哲学」はあまり「よく理解」されていないように感じた。「奥の細道」はいうまでもなく「心の中の険しくもある奥の細道」でもあるはずなのに。

*1:訳者不明。

*2:日本語に関しては安田功さんが協力している。

*3:訳者はD. T. Suzukiとあるが、詳細不明。