なずな


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表題の「なずな」に惹かれて本書を繙いた。


なずな(薺)と言えば、もう何年も朝の散歩コースにある斉藤さんのトウモロコシ畑の隅っこに毎年生える薺を定点観測のように見続けてきた。ぺんぺん草とも呼ばれるありふれた目立たない草の一種で、春の七草に数えられ、「よく見れば/薺花咲く/垣根かな」(芭蕉44歳、貞享四年、1687年、江戸深川の草庵にて)と詠まれたこともある、芭蕉でさえ眼前の世界をよく見なければその存在に気づかなかった薺。しかしそんなことも忘れられかけている薺。よほどのことでもないかぎり、どんな花を咲かせ、どんな実をつけるかに興味などもたれない薺。そんな薺は実は赤ん坊に似ているところがあると作家は示唆したかったのかもしれない。薺がそうであるように、実は私たちは赤ん坊のことをまだまだよく知らないのだ、と。本書に読まれる赤ん坊に関する数々の細やかで驚くべき観察と認識のなかには、例えば、世界には赤ん坊の数だけ中心があり、しかも、その中心はまわりから無限に遠のいてきらめく見えない星である、というハッとさせられるある詩人の宇宙的な世界認識もある。


本書を読みながら、初めて子を授かり、次々と生じる不測の事態に翻弄され、疲労と不安のなかで戸惑いながらも、なんとか乗り切った日々のことを色々と思い出していた。その頃撮られた写真の一枚にはやつれはてた二九歳のときの自分の顔が写っている。本書の「私」と同じように、両目の下に黒い隈を作って。


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